「ヒロシマの記録-遺影は語る」から
'99.7.31

家業の理髪 叔父が鍛える 

 二人の父 
(4)
平和公園に眠る街 中島本町

PHOT
「理髪いすは5台あり、扉はスプリングドアのしゃれた店でした」と、家族のアルバムを手に話す浜井さん。後ろは、「原爆の子の像」
 ■焼け跡から壁時計

 夏休みに入りノートを手にした子どもの姿が目立つ原爆資料館。新たに寄贈された被爆資料の展示コーナーに、ゼンマイ仕掛けの針が焼け焦げた陶器皿の壁時計がある。説明文は「爆心地200メートル 自宅焼け跡から掘り出したもの 原爆により両親、兄、姉がなくりました」。廿日市市に住む寄贈者の浜井徳三さん(65)が補って言う。

 「原爆の翌日におやじの弟が見つけて、遺骨とともに宮内村へ持ち帰ってくれたんです。次の日、己斐から歩いて自宅跡を掘り返しました。私を得心させるためだったのでしょう。宮内に戻ると『だれもおらんかった』と泣いたそうです」。壁時計は生家である「中島本町33番地の1」の浜井理髪館に飾られていた。

 当時十一歳。広島市の学童疎開が始まった一九四五年四月、本川国民学校五年だった浜井少年は、約十五キロ離れた広島県佐伯郡宮内村(現・廿日市市)の親族宅に寄留し、地元の学校に通う。「末っ子だけに遠くへ手放したくなかったんだと思います」。三年生以上は、県北部の双三郡に集団疎開していた。

 ■別離の日 今も胸に

 両親に甘えた最後の日は今も脳裏に焼き付く。原爆投下の前日であった。

 父二郎さん(46)、母イトヨさん(35)、安田高女三年の姉弘子さん(14)と、母の実家がある隣の原村で過ごす。泊まっていくよう勧められた三人は、動員作業に出ていた修道中一年の兄玉三さん(12)が戻るからと帰途についた。ハワイ生まれの母が持つ紺色の鮮やかな日傘が、小さくなるまで見送った。

 「やはり懐かしいんでしょうね。私は暇があると平和公園の辺りをうろうろしています」。浜井さんは一冊のアルバムを携えて、五八年に建立された慰霊碑「原爆の子の像」近くの自宅跡に足を運んだ。

 蝶(ちょう)ネクタイ姿で理髪する父。幼子をひざの上であやす母。姉は着物姿の幼ななじみと写り、そこに五人の名前を書いていた。うち四人が「八月六日」に亡くなる。浜井さん兄弟と写る呉服店や、うどん屋の男の子・・・。ありし日の家族と中島の子どもたちを収めたアルバムは、おびただしい死者の記録でもある。

 ■息子も本籍移さず

 その中に「広島理容学校昭和十四年 第十四回卒業記念」が残る。「学校は中島の慈仙寺にあり、おやじは講師を務め、バリカンによるヘアカット技術を広めたと聞きました」。戦後は、叔父に仕込まれ、父と同じ仕事を選び歩んだ。

 壁時計と遺骨を納めた叔父完司さん(八十九歳で昨年死去)が養父となり、廿日市高校を卒業。叔父の店で見よう見まねで習い、いきなり理容師試験に挑んだ。「試験官から『昔はお前のおやじに世話になった。頑張れよ』と励まされ、ひよっ子が通ったようなもんです」。その理髪の仕事は六十歳を超えたのを機に退き、今は保険の代理店を営み、人との出会いを楽しみに働く。

 「叔母によく言わるんですよ。人に酒を振る舞うのが好きだったおやじにそっくりだと。教えてもらわんうちに見とったんでしょうね。育ての叔父は実の子と思うほどの情を注いでくれ、不幸じゃなかったですね」。半生をそう振り返った。屈託なく話せる時が過ぎた。

 現在の本籍は「中島町33番地の1」。独立し家庭を持った息子二人もそのままだという。


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