一九九一年の湾岸戦争で、軍事超大国アメリカを軸にした多国籍軍は、圧倒的戦力でイラク軍を撃破した。米軍の戦闘による戦死者は百四十八人。戦争は短期間で終結した。凱旋(がいせん)した夫や妻、息子や娘の無事をともに喜び合うはずだった留守家族。が、その喜びもつかの間、帰還米兵の多くが体の不調を訴え、命をも失っていった。放射能兵器の劣化ウラン弾などが、体を侵していったのである。
(田城 明、写真も)
2000年4月4日

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誤射
体中に破片食い込む  骨がん?苦闘の日々

 ニューメキシコ州最大の都市アルバカーキ市から南へ約七十キ ロ。ロスウノス町の新興住宅街にジェリー・ウィートさん(32)の家 はあった。

 週末の午前十時。妻のレベッカさん(30)に起こされたウィートさ んは、肩まで伸びた金髪を後ろで束ねながら、二階から下りてき た。アルバカーキ中央郵便局の職員。前日も夜勤で深夜の帰宅だっ た。

 「あの戦争以来、体調が狂ってしまった。腹痛や関節の痛み。今 は左腕のここが一番気になるんだ」。食堂のいすに腰を下ろした彼 は、Tシャツのそでをまくり上げ、傷口に目をやった。

 九八年十一月、アルバカーキ退役軍人病院で骨の一部を取り出し た際の手術痕である。医師たちは、腕の痛みを訴えるウィートさん の骨の生体組織検査を九月に実施。二カ月後に手術をし、切り取っ た骨の部分に金属を埋め込んだ。

 「骨に腫瘍(しゅよう)ができていたんだ。劣化ウランの影響に 違いない。でも、病院は認めようとしない。『がんじゃないけど、 取り出すだけ』だって」  

自軍の戦車で被弾

 ウィートさんには、劣化ウランが原因だとするだけの確信があっ た。湾岸戦争での地上戦が始まって三日目の九一年二月二十六日。 ひどい砂あらしの中、戦闘用装甲車でイラク南部を進攻中にイラク 軍と遭遇、交戦中に二度砲弾が命中した。いずれも自軍戦車からの 誤射によるものだった。

 ドライバーのウィートさんは最初の砲撃でしばらく意識を失っ た。気がつくと、着衣が燃えていた。防弾チョッキなどを急いで脱 いだ直後、再び目前で火柱が上がる。体中が焼けるように熱かっ た。首、背中、腰…。劣化ウラン弾の破片が体内に食い込み、皮膚 組織を焼いた。装甲車はそれでも走り、野戦病院までたどり着く。

除隊後に事実知る

 「救出した五人を含め、九人全員が奇跡的に生きていた」。翌 日、医師たちが深さ一―二センチまで彼の体に食い込んだ破片を取り出 した。二十五個以上でてきた。治療後、友軍による誤射の事実は知 らされぬまま、汚染された装甲車に戻る。そして駐留先のドイツに 戻る三月初旬まで、隊とともに行動した。

 誤射と知ったのは、除隊後の九二年三月。ロスアラモス国立研究 所に勤務する父が、息子が持ち帰った破片をガイガーカウンターで 調べ、放射能を帯びていることが分かったのだ。

 「ひどい話さ。九三年にボルティモアの退役軍人病院で尿検査を 受けたら、劣化ウランが検出された。でも、正常の範囲だってい う」

 体内に取り込まれた劣化ウラン粒子は、肺や腎臓(じんぞう)、 やがては血液を通じて骨にもたまるといわれる。ウィートさんは、 検査や手術の際に「民間の研究機関でも、取り出した組織や骨を分 析してもらいたい」と、病院側に強く要望した。しかし、聞き入れ てはもらえなかった。

頭や腕に今も破片

 後頭部と右腕には、まだ一個ずつ劣化ウラン弾の破片が残ってい る、という。毎日、鎮痛剤を取りながらの生活が続く。

 「がんでなければ骨を切り取ったりはしないさ。でも、まだ負け るわけにはいかない。子どもが二人もいるからね」。ウィートさん はそう言って、隣の部屋で遊ぶ長男のジョセフちゃん(9つ)と二男の デレックちゃん(3つ)を見やった。


ロスウノス地図


ジェリー・ウィートさん
乗っていた装甲車の写真を前に、左腕の手術痕を見せ るジェリー・ウィートさん(ニューメキシコ州ロスウノス町)


劣化 ウラン弾の破
ウィートさんの体内や寝袋などから取り出された劣化 ウラン弾の破片

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