中国新聞社
2000/4/29

ヒロシマの記録-遺影は語る
  材木町Ⅱ


死没者名簿

小原 サダ子  小原 サダ子(47)
 ようかん製造・販売「平甘堂」7月末に水主町3番地(中区加古町)の自宅が建物疎開となり、転居した材木町46番地で爆死。6日朝、仁保町の親類を訪ねていた進徳高女4年の三女静枝らが9日ごろ、台所跡で金歯により遺骨を確認長女家族との2世帯7人のうち4人が死去。三女は「遺骨が見つかったのは母だけで、その骨もつまむとパラパラと手のひらからこぼれました」。

長女 佐々木 八重子  長女 佐々木 八重子(22)
 広島水主町郵便局勤務爆心700メートルの局へ出勤し、遺骨は不明。





 長女の夫 広三(27)
 東洋製罐勤務遺骨は不明。5日は西天満町にあった工場で夜勤に就いていた。(注・遺影なし)

 夫の叔母 ミツ(75)
 疎開していた安佐郡祇園町(安佐南区)から戻っていた。(注・遺影なし)

飯山 忠雄  飯山 忠雄(58)
 八百屋自宅で妻と下敷きとなり、佐伯郡観音村佐古(廿日市市)に住む弟の国人らが自宅跡で遺骨を確認一家3人が全滅。小学1年だったおいの吉幸は「両親は荷車を引いて広島に向かい、約一週間捜し歩いた結果、家の跡にあった2体の骨が、伯父夫婦のものに間違いないと納めたそうです」。



妻 タマヨ  妻 タマヨ(49)
 自宅跡で遺骨を確認。





二女 清美  二女 清美(21)
 袋町小教諭爆心460メートルの学校で被爆し、子どもたちと比治山の救護所まで逃げる。遺骨は不明。





 長原 サダ子(35)
 精肉店軍に徴用されて岩国市にいた夫千代市が捜すが、遺骨は不明子どもとの4人が全滅。47年に千代市と結婚した冨士枝は「亡き夫から聞いた話では、跡には商売繁盛を願う招き猫しか見当たらず、やり場のない怒りからそれをけ飛ばしたそうです」。(注・遺影なし)

二男 定利  二男 定利(10)
 中島小4年遺骨は不明。





三男 範明  三男 範明(7)
 遺骨は不明。





 四男 宏明(3)
 遺骨は不明。(注・遺影なし)>

筒井 太一  筒井 太一(56)
 建築請負材木町46番地の自宅兼時計店から自転車で作業現場へ向かう途中に被爆したらしい。岡山県小田郡笠岡町(笠岡市)に縁故疎開していた小学4年の孫娘を訪ねていた妻ユキが捜すが、遺骨は不明妻や娘、孫との4人のうち3人が死去。復員した義理の息子が薬研堀町(中区)で時計店を再開した48年に生まれ、店を継ぐ太一の孫昭夫は「自宅に埋めてあった柱時計は、振り子の棒が折れていたのを修理し、今も店で時を刻んでいます。1週間に1度、時計の分銅を引くたび、原爆を乗り越えた重みを感じます」。

長女 朝子  長女 朝子(31)
 筒井時計店自宅で被爆した後、収容された古田町の救護所で10日死去。





朝子の長男 昭之  朝子の長男 昭之(てるゆき)(3)
 遺骨は不明。三輪車が自宅跡前の路上にあった。





二川一衞  二川(ふたがわ)一衞(47)
 広島材木町郵便局長矢賀町(東区)の自宅から、材木町46番地の局へ出て遺骨は不明。87歳になる妻に代わって、小学5年だった長男忠義は「父は、兄が宇品町で営んでいた郵便局に勤め、41年ごろに材木町の郵便局長になったそうです」。中国郵政局が95年にまとめた「被爆50周年・広島逓信局等原爆犠牲者の調査報告書」によると、事務員中田千代子(年齢不明)も局内で爆死とある山中高女(現・広島大付属福山高)1年の長女幸子(13)は、雑魚場町一帯の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。

大成 金米  大成 金米(39)
 広島逓信局(現・中国郵政局)勤務46番地にあった材木町郵便局に住み、爆心1・4キロの逓信局へ出る途中に被爆したとみられる。遺骨は不明長男と2人。妻子4人は賀茂郡下黒瀬村(黒瀬町)に疎開していた。三菱重工業広島機械製作所の一部が疎開を進めていた佐伯郡平良村(廿日市市)に動員されていた市立中(現・基町高)3年の長男右弌(ゆういち)は「父は、町内の防空監視隊員として前夜から勤務に就き、翌朝は私を起こした後も蚊帳の中でぐったりしていました。8日に入った郵便局跡は赤いポストの土台だけが残り、その土台をけると砂のように崩れました」。

岡本 量一  岡本 量一(54)
 岡本商店綿布加工と卸の材木町48番地の自宅にいたとみられる。遺骨は不明56番地から移ってきた義弟家族と2世帯6人のうち3人が死去。高田郡吉田町へ母を伴って4月に赴任していた小学校教師の長女清子は「母と木炭バスに乗って8日市内に入り、自宅前にあった防火用ポンプを目安にたどり着きました。遺体は性別がつかないほど焼けており、通り掛かりの男性に頭がい骨を砕いても らい、転がっていたやかんに納めました」。







義理の妹 山本 キヌエ  義理の妹 山本 キヌエ(42)
 荷車貸し業材木町56番地の自宅から転居した義姉の夫である岡本宅で被爆し、運ばれた似島で7日死去子どもとの5人。女子てい身隊として三菱重工業広島造船所に動員されていた長女時江は「伯父の身の回りの世話を兼ねて4月ごろ移りました。56番地の自宅では玄関の板間を外して、荷車3台を置いていました。建物疎開を命じられて立ち退きとなった人や、近くの針製造工場に月決めで貸していました」。

 三男 高義(12)
 修道中1年遺骨は不明。市役所そばの雑魚場町の建物疎開作業へ動員が続いていたが、1年生は当日は休養日になっていた。(注・遺影なし)

丸山 守一  丸山 守一(64)
 塩田鉄工所材木町54番地の自宅兼工場跡で焼け残った機械の間に本人とみられる遺体があったが、遺骨は不明家族4人が全滅。市立第一工業学校(戦後に廃校)4年から海軍航空隊へ志願し、茨城県霞ヶ浦にいた三男博は「町内会の人たちが誓願寺で壮行会を開いてくれました。式台に上がってあいさつをした私を見送った方々の多くが、戻ってみれば亡くなっていた。今も戦争の非情さを思わずにはおれません」。

長女 菊乃  長女 菊乃(27)
 遺骨は不明。





姉 ウラ  姉 ウラ(74)
 台所跡付近に遺体があったらしいが、遺骨は不明。





姉 塩田 トモ  姉 塩田 トモ(69)
 中庭に遺体があったらしいが、遺骨は不明。亡き夫が始めた鉄工所を弟の丸山守一が継いでいた。





 末田 三代治(44)
 「末広堂」菓子店安佐郡飯室村(安佐北区)に住む弟辰雄らが8日ごろ入るが、遺骨は不明妻と2人。辰雄の長女真由美は「幼いころ家の蔵の中で、屋号の入ったちょうちんや菓子袋を見た記憶があります。父は生前、元安川の灯ろう流しに毎年参加していました」。

 妻 マツヱ(33)
 遺骨は不明。(注・いずれも遺影なし)

 米澤 方三(36)
 陸軍運輸部勤務水主町の自宅が7月末に建物疎開となり、材木町筋の西側に転居。宇品町の運輸部で被爆し、51年12月4日死去水主町から豊田郡中野村(大崎町)に二男と疎開し、81歳になった妻蔦惠は「夫は原爆から3年後に発熱が止まらなくなり、最期は結核菌が脳まで回りました。原爆のガスを吸ったために白血球が減り、死んだと思っています」。(注・遺影なし)

矢川 常藏  矢川 常藏(43)
 紙器製造「矢川錦凾(きんこう)堂」材木町34番地の自宅で爆死。いとこらが金庫前にあった遺骨を歯型で確認妻子との4人が爆死。佐伯郡廿日市町(廿日市市)に縁故疎開していた小学6年の二女喜代子は「5日の晩に縁側で夕涼みしていた父と話した近所の緑保和さんによると、『長いこと顔を見ていない子どもたちに会いに明日は疎開先へゆく』と言っていたそうです」。

妻 アサノ  妻 アサノ(37)
 自宅にいたとみられるが、遺骨は不明。





長女 伸子  長女 伸子(12)
 広島市女(現・舟入高)1年祖母と弟の3人で疎開していた佐伯郡八幡村(佐伯区)から前日に戻り、材木町南側一帯の建物疎開作業へ学徒動員に出たらしい。遺骨は不明。



 四女 博子(1)
 母と一緒にいたとみられるが、遺骨は不明。(注・遺影なし)

山香 サト  山香 サト(51)
 和服裁縫所材木町35番地の自宅跡にあった金庫前で、安芸郡海田市町(海田町)の陸軍軍需輸送統制部に勤めていた長男嘉夫が遺骨を確認長男夫婦との3人のうち嫁と2人が爆死。東京大2年だった二男英三は「夜行に乗ってようやく14日に海田市駅まで着き、兄と一緒に歩いて家を目指しました。母が6日朝に手紙を書いていたと兄から聞いて、いつものように私あてに違いないと思うと涙があふれ、どんな道筋で戻ったのか覚えていません」。

長男の妻 睦子  長男の妻 睦子(22)
 自宅で爆死。夫嘉夫が2年前に結婚し、初産を控えていた妻の遺体を確認。





死没者の氏名(年齢)
職業遺族がみる、また確認した被爆状況1945年8月6日の居住者(応召や疎開は除く)と、その被爆状況=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、公刊資料に基づく。年数は西暦(1900年代の下2けた)。(敬称略)

 橋守屋 善太郎(50)
 広島紙器連合会理事遺骨は不明妻と2人が爆死。亡き弟猛、妻吉江は「召集で京都にいた夫が原爆の直後、広島出身者は帰っていいとの許しを得て捜したそうですが、はっきりしたことは分からなかったそうです」。元安橋西側の中島本町53番地の自宅が建物疎開となり、材木町で紙器印刷所を営んでいた田中香苗(爆死)の自宅に入っていたらしい。

 妻 ヨシヱ(42)
 遺骨は不明。(注・いずれも遺影なし)

 吉岡 トメ(61)
 材木町39番地の一部モルタル造り自宅=写真=で爆死呉海軍工廠に動員され、9日ごろ台所跡で遺骨を確認した広島高校(現・広島大)2年のおい昭彦は「伯母は押しつぶされたのか、頭がい骨の周りに腰骨やろっ骨が散らばっていました。材木町で工務店を営んでいた私の父と家族が40年ごろ平野町に移った後も、一人で元の店舗に住んでいました」。(注・遺影なし)







緑 フミヱ  緑 フミヱ(36)
 銑鉄・コークス販売「緑竹蔵商店」材木町45番地の自宅跡で遺骨が見つかる疎開先から前日に戻った娘2人を含め家族6人のうち5人が爆死。夫竹蔵は43年に病死していた。爆心3キロの広島真宗学寮の医療施設開設に動員されていた広島二中(現・観音高)3年の長男保和が7日、母の遺骨を確認。家業の鋼材販売を引き継いだ長男は「家族を一度に亡くしたのは、この年になっても何とも表しようがありません」。

二男 茂  二男 茂(12)
 広島二中1年材木町西側の本川左岸の建物疎開作業に動員され、爆死。兄保和が7日、作業現場跡近くで遺体を確認。





長女 由美子  長女 由美子(9)(右)
 廿日市小4年遺骨は不明。佐伯郡廿日市町(廿日市市)に祖母と疎開していたが5日、かぶれた皮膚を治療するため戻った。





 二女 千鶴子(6)(左)
 廿日市小1年廿日市町から姉と戻り、遺骨は不明。

 三男 俊昭(2)
 玄関跡で遺骨が見つかる。(注・遺影なし)

田中 定雄  田中 定雄(16)
 山陽中4年遺骨は不明。安芸郡船越町(安芸区)の日本製鋼所の寮に住み動員に就いていたが、6日は電休日となり、母フデコが夫の病死後も一人で守っていた材木町44番地のちょうちん卸店に戻る途中だったとみられる食糧の買い出しに出て被爆し、92歳になる母は「定雄が久しぶりに帰ってくるので栄養があるものをと思い、魚を用意しました。思い出すとかわいそうな、寂しい限りです」。

 田 サヨコ(33)
 材木町56番地の自宅から移った49番地の山田宅で爆死したとみられる。一人暮らしの山田アサは外出先の横川町で被爆夫と子どもとの4人のうち3人が死去。戦後生まれの二男は「再婚した父が10年前に他界した折、墓を郷里の尾道から広島市に移すために開けると、中に灰のような砂のようなものがありました。遺骨だったかどうかは聞いていません」。

 長男 敦(4)
 爆死。

 三女 賢子(1)
 爆死。(注・いずれも遺影なし)

中島 亀次郎  中島 亀次郎(43)(右)
 製糖技師材木町55番地の自宅で爆死したらしい。遺骨は不明 一家4人が全滅。材木町76番地に住んでいた妻の妹藤堂佳子は「看護婦だった姉は、義兄とインドのカルカッタで知り合い、ベトナムのサイゴン(現・ホーチミン)を経て日中戦争が始まった37年ごろ帰国し、実家の材木町に落ち着きました。義兄は絵を描いたり、生け花を教えたりと才人でした」。





妻 ツル子  妻 ツル子(32)
 自宅で被爆したとみられるが、遺骨は不明。76番地に住んでいた妹公子(20)も死去。





 長男 茂治(12)(左)
 広島二中1年自宅から西隣の中島新町一帯の建物疎開作業に出て、遺骨は不明。

長女 幸子  長女 幸子(7)
 中島小2年105番地の1の誓願寺にあった分散教室に向かったらしい。遺骨は不明。





橋詰 薫  橋詰 薫(16)
 広島搬送電気通信工事局(現・NTT西日本)勤務爆心1キロの市役所南側にあった局で宿直を終え、材木町55番地の自宅に戻る途中だったらしい。遺骨は不明両親と妹との4人。楠木町3丁目(西区)の誉航空軽合金に動員されていた安田高女2年の妹浩子は「父は中広町(西区)の勤め先で被爆後、自宅前の通りで男性用のベルトのバックルと地下足袋のこはぜを見つけ、それを兄の遺骨代わりに納めました」。

山下 義一  山下 義一(27)
 三菱重工業広島機械製作所勤務補充兵を訓練する教育召集がかかり、爆心1キロの西練兵場で爆死。母や弟、妹の4人でいた材木町56番地から5月ごろ、会社がある南観音町に移り、母たちは高田郡甲立町(甲田町)に疎開していた弟の妻ハツネは「47年に結婚した折、義母は『義一は骨すら見つからん』とよく泣いていました。その後、遺骨は似島にあることが分かり、納めました」。

中澤 澄子  中澤 澄子(33)(右)
 水主町20番地の自宅が6月末に建物疎開となり、転居した材木町56番地の北村たばこ店の南隣で爆死夫と子ども、母と6人のうち5人が死去。夫秀吉は、徴用されていた宇部市の炭鉱から戻り、爆心1・5キロの三篠橋近くで被爆しながら全員の遺骨を納める。双三郡三良坂町で家族の死を知った小学4年の二女昭江は「4月に学童疎開した後は、母に会えたのは一度だけです。姉の和江と初夏のころ訪れて来てくれ、持参の弁当を一緒に食べました」。

長女 和江  長女 和江(12)
 自宅で爆死したとみられる。中島小を卒業し、女学校に進んでいた。





 三女 邦江(6)(左)
 中島小1年爆死。

 長男 征英(1)
 爆死。(注・遺影なし)

 母 中岡 ヨシ(年齢不明)
 爆死。娘むこの秀吉が宇部市の炭鉱へ徴用となり、大阪から孫の世話に来ていた。(注・遺影なし)

 後藤 すみ江(18)
 美容師爆心500メートルの鷹匠町(中区本川町、十日市町)にいた母宅で被爆し、光市の病院で翌46年6月23日死去。自宅は材木町60番地父と2人。双三郡三良坂町に学童疎開していた小学6年の妹賀代子は「戦争中は美容師の仕事ができなくなり、広島駅前の郵便局に勤めていました。被爆後も元気そうにみえましたが、次第に寝込むようになり、食べたがったビワを口にすると、最期は洗面器がいっぱいになるほどの吐血を繰り返しました」。(注・遺影なし)

広森 光枝  広森 光枝(20)
 広島鉄道局勤務自宅は材木町60番地。爆心1・2キロの上流川町(中区上幟町)の女学院高女の校舎に、宇品町から分散疎開していた鉄道局審査課へ向かう途中だったとみられる。遺骨は不明母と2人。46年に中国から復員した兄元惠は「吉島の親類宅を訪ねていた母が後に聞いた話では、妹は女学院近くの福屋百貨店にいったんは収容されたそうです」。

坪内 千代子  坪内 千代子(23)
 洋裁母と妹がいた筋向かいの実家、広森宅で爆死。陸軍船舶司令部に勤めていた夫富貴男が7日朝、遺骨を確認夫と2人。80歳になる夫は「千代子が妊娠し、宇品町から6月に義母が住む材木町に移りました。焼け跡を捜すと遺体があり、抜けかけた下の前歯を納めて弔いました。7カ月の身重でした」。

 今井 一三(かずみ)(19)
 鉄工所勤務遺骨は不明。材木町60番地の自宅から、爆心600メートルの鷹匠町(中区十日市町)の鉄工所に勤めていた両親と兄の妻は4月、郷里の佐伯郡三高村(沖美町)に疎開していた。南太平洋のセレベス島で敗戦を迎えた兄勇は「弟は軍需工場に勤めていたので疎開できなかったようです。10月に復員すると、父は三高村でサツマイモを作りながら時間をみつけては広島へ船で向かい、弟を捜し歩いていました」。(注・遺影なし)

 竹原 寅市(43)
 理髪師材木町60番地の2の自宅から、妻の姉の夫が北隣の中島本町40番地の1で営んでいた「阪本調髪所」に出勤し、遺骨は不明妻子との6人のうち5人が爆死。広島沖の金輪島にあった陸軍運輸部へ動員が続いていた県立第二県女(現・皆実高)3年の長女英子は「6日朝は休みたいと言うと、母から『非国民はいけんよ』としかられ、ふてくされて家を出ました。母が送り出してくれたから助かった、あの時家族と一緒に死んでいれば…と相反する思いが消えません」。

 妻 チヨ(33)
 遺骨は不明。中島本町にいた姉の阪本イワ(42)も夫と長女の3人が死去。

 二女 良江(11)
 中島小6年遺骨は不明。足が弱いため、農作業にも就く学童疎開に両親が行かせていなかった。

 長男 潔(9)
 中島小4年遺骨は不明。姉と同じ理由から、3年以上による学童疎開に加わっていなかった。

 二男 達知(さとのり)(3)
 遺骨は不明。(注・いずれも遺影なし)


死没者名簿(つづき)