中国新聞社

2000/6/28

ヒロシマの記録-遺影は語る
材木町


新たに確認できた死没者(遺影提供も含む)


檪浦(とちうら) 久子 檪浦(とちうら) 久子(16)
県立可部高女(現・可部高)3年安佐郡川内村上温井(安佐南区)義勇隊として自宅から材木町南側一帯の建物疎開作業に出た。遺骨は不明。93歳になる母アキヨは「夫が7月に召集されたため畑仕事の人手が足らず、呉市の工場に動員されていた久子を呼び戻しました。建物疎開への動員は免れていたのが、原爆の前夜に隊長さんが訪ねてきて、明日で最後だからと言われて出ました。6人きょうだいの長女で本当に気のやおい子でした」。川内村義勇隊は、材木町の誓願寺境内に荷物を置いて作業に就き、183人が被爆死。

溝口 光子 溝口 光子(21)
農業川内村義勇隊として妹房子と材木町に出動し、爆死。義姉久子は「光子さん姉妹は父が病死し、幼いころから母を助けて田畑を手伝い、懸命に働いていたそうです。しゅうとめは『嫁入り前の娘がむごいことになった』と、法事のたびに嘆いていました」。

妹 房子(17)
姉とともに爆死。3月に祇園高女(現・祇園高)を卒業したばかりだった。(注・遺影なし)

名前 坂本 (14)
広島市立第一高女(現・舟入高)3年材木町25番地に住み、遺骨は不明。父藤登(41)と母ヨシ子(34)も爆死。(注・死没記録は4月28日付「材木町Ⅰ」に掲載)