中国新聞社
2000/2/24

ヒロシマの記録-遺影は語る
  広島郵便局


死没者名簿・職員(その2)

齊藤 一郎(32)
 広島市宇品町(南区)貯金保険課8月6日妻ミヨ子が1歳の二女を背負って捜すが、遺骨は不明。80歳になる妻は「町内会役員の夫は、出がけに隣組の世帯を訪ねていたそうです。まだ局に着いていなかったのでは、生きているのでは、と捜しました」。

酒井 作次郎 酒井 作次郎(47)
 広島市富士見町(中区)貯金保険課8月6日広島一中(現・国泰寺高)4年の長男喬が動員先の旭兵器製作所(西区)で被爆した後に捜すが、遺骨は不明。長男は「メリヤス職人だった父は、統制経済で商売ができず、郵便局へ勤めました。原爆から半月後に自宅跡を掘り返すと、私が5日に持って帰ったシジミの貝殻があり、家族の暮らしの面影に独り涙しました」妻光子(38)と生後3カ月の二男顯(あきら)は爆心1・2キロの自宅で爆死。

佐古田 章雄 佐古田 章雄(16)
 安芸郡温品村(東区)郵便課8月6日父官一らが捜すが、遺骨は不明。勤め先の日本製鋼所広島製作所(安芸区船越)で被爆した兄信夫は「章雄は、6日朝は宿直勤務明けでありながら、交代の同僚が現れないので引き継ぎができずにとどまっていたそうです。戦後、その同僚が両親に謝りに来ました。広島逓信講習所の高等科に進むため一生懸命勉強していました」。

佐々木 清隆(24)
 広島市塩屋町(中区紙屋町2丁目)庶務課8月6日遺骨は不明。結婚して佐伯郡五日市町にいた妹時枝は「実家の塩屋町に住んでいた家族全員と、私の夫を奪った原爆は、忘れようと思っても忘れさせてくれません」6月に結婚した妻博江(年齢不明)と、呉服商の父昇(51)、母フサヨ(56)、姉静子(30)の遺骨はいずれも不明。

佐々木 シゲ子 佐々木 シゲ子(18)
 高田郡井原村(安佐北区)の叔母宅に下宿。実家は、高田郡志屋村(安佐北区)貯蓄業務課8月6日父文助と母イチエが捜すが、遺骨は不明。小学6年だった妹美佐子は「年ごろの姉には思いを寄せていた人がおり、結婚話が進んでいました。食糧増産のための農作業で忙しい叔母夫婦を手伝うため、5日は無理をして職場を休み、6日は出たそうです」。

佐々木 昇(52)
 広島市三滝町(西区)郵便課8月6日遺骨は不明。めいに当たる一美は「叔父は、退職金で家を建て替えるのを楽しみにしていたそうですが、家族3人全員が原爆で亡くなりました」妻リヨ(54)は爆心2・5キロの自宅で被爆し、49年7月26日死去。長女で一美の姉になる一江(16)は爆心1・6キロの広島貯金支局(中区)へ出勤し、遺骨は不明。

貞宗 義登 貞宗 義登(47)
 広島市三滝町(西区)郵便課8月14日爆心700メートルの空鞘町(中区十日市町)で集配業務中に被爆し、運ばれた安佐郡飯室村(安佐北区)の親類宅で14日午前10時ごろ死去。爆心1・7キロの広島中央電話局西分局横川従局で被爆し、みとった三男幸治は「父は、最期に『広島はどうなっているか』と尋ねました。配達ができなかった郵便物のことを気にしているのだと思いました」。

澤村 盛重 澤村 盛重(38)
 広島市己斐町(西区)郵便課8月6日母ミユキと長女満江が9日に入るが、遺骨は不明。実践高女(現・鈴峯女子高)2年だった長女は「夕立になると、家族9人の炊事をする母に代わって、本局まで傘を持ってよく行きました。原爆の後で向かうと、あんなに立派だった建物が跡形もなく、ぼうぜんと立ち尽くしました」。

島田 博(22)
 広島市空鞘町(中区本川町3丁目)郵便課8月17日天満町で倒れているところを大工の父宗次郎が見つけ、三滝町に建てたバラックで死去。爆心2・3キロの広島地方専売局(現・日本たばこ)で被爆した妹清子は「最期に『オゥオゥ』と言葉にならない声を3度振り絞りました」母ハルノ(34)は自宅近くで被爆し、三滝町で18日死去。本川小高等科2年の妹笑子(13)は小網町の建物疎開作業に動員され、本川小2年の弟守(8つ)の二人とも遺骨は不明。母の背にいた弟の哲壮(4つ)は6日死去。

島本 勝人 (51)
 広島市細工町(中区大手町1丁目)郵便課8月6日二男泉男が捜すが、遺骨は不明妻すず(39)は町内で被爆したとみられ、遺骨は不明。(注・遺影は2月21日付の「細工町」編で掲載)

清水 麗子 清水 麗子(17)
 広島市大手町4丁目(中区)に下宿。実家は山県郡本地村(千代田町)庶務課8月6日父博夫と母オセエが捜すが、遺骨は不明。家族に7月あてた手紙が絶筆となる。「いよゝB(注・米戦略爆撃機B29)も広島におとずれて参りました。昨夜なんか一時間余りしか眠って居(お)りません(中略)腹はきめて居るものヽさすが良い気持ちは致しません」「一寸さきの見えぬ身、どんな事が起きるか。最後まで戦って、火と戦い煙と戦い、日本女子義勇隊の名にはじぬ様がんばりますね」妹喜美子(15)は爆心400メートルの大手町郵便局に勤め、遺骨は不明。

下梶 ハツヱ(27)
 広島市西新町(中区土橋町)郵便課8月6日夫の母ミネが捜すが遺骨は不明。小学5年だっためい八重子は「夫婦と娘の3人家族は、皆が戦争の犠牲になりました。伯父は原爆の前年、南方への輸送船が撃沈されての戦死でした」。

長女 カズミ(3)
 母に伴われて局に向かった。遺骨は不明。

下瀬 幹枝 下瀬 幹枝(15)
 広島市西九軒町(中区十日市町1丁目)庶務課8月6日遺骨は不明。海軍に召集され、現在の長崎県佐世保市にいた兄保は「妹は書類を取りに下りた地下室で原爆に遭ったという話を戦後人づてに聞きましたが、本当かどうかは分かりません」。

下茶谷 達男(29)
 広島市東蟹屋町(東区)貯蓄業務課8月6日妻花子が捜すが、遺骨は不明。

志森 博登 志森 博登(43)
 高田郡向原町長田貯金保険課8月9日自宅に午後6時ごろ自力でたどり着くが、血を吐き始めて9日午前8時ごろ死去。小学5年だった長女美恵子は「原爆の時は、同僚と『今日は暑いね』と話しながらたばこを吸っていると、突然局舎が崩れ落ち、がれきの下敷きから一人はい出し、川に飛び込んだそうです。父のはめていた腕時計が8時15分で止まっていたのをはっきりと覚えています」。

舎里田 進(37)
 広島市南千田町(中区)郵便課8月6日遺骨は不明。賀茂郡西志和村(東広島市)の祖父宅に疎開していた当時12歳の長女孝子は「母は再婚し、祖父に引き取られた私は、幼い弟を連れて学校に行くこともありました。父がいれば、こんな苦労をせずに勉強もできたのでは…。あの時、原爆で一緒に死ねばよかったと考えたことが正直あります」。

名前 白砂 君枝(19)
 高田郡向原町坂貯蓄業務課8月6日父要と母コユキが捜すが、遺骨は不明。呉市の第11海軍航空廠に勤めていた弟昭和は「姉は結婚式を8月10日に控え、職場を休んでいました。6日朝は『事務の引き継ぎがあるので』と、退職届を持参して出ました。父が代わりに持って行ってやるからと引き留めたのだそうですが…」。

杉岡 英夫(40)
 広島市舟入本町(中区)検閲課8月6日自宅で被爆した妻君江が6日午後から捜し、局舎跡で遺骨を確認。85歳になる妻に代わって、当時4歳だった二女多恵子は「母は父のげたを履き、私を背負って捜したそうです。幼かった私も、人を焼き尽くした独特のにおいだけは忘れられません。母は翌年1月に弟を出産しました」。

名前 杉本 シズコ(44)
 広島市空鞘町(中区本川町3丁目)郵便課8月6日四女八重子が、爆心1・4キロの中国軍管区兵器部で被爆した後に捜すが、遺骨は不明。四女は「6日朝は、母と末の弟豊と3人で家を出、相生橋を渡った所で母は弟の手を引いて南側の局へ、私は北側の兵器部へ向かいました。あれが最後の別れになるとも思わず、どんな言葉を交わしたのか、覚えていません」三女芳江(20)は自宅で爆死。長男の本川小高等科2年信(13)は、袋町の富国館内にあった広島電信局に動員され、配達中に被爆し、19日死去。

三男 豊(5つ)
 郵便局内の育児室で爆死し、遺骨は不明。

名前 鈴木 敏子(19)
 広島市平塚町(中区)貯蓄業務課8月6日遺骨は不明。爆心2キロの広島鉄道局で被爆した妹美津子は「逃げるのに精いっぱいで、姉がどこで死んだのか分からないまま、原爆供養塔の納骨名簿で遺骨を捜し続けました。5年ほど前に、比治山の多聞院に殉職職員の慰霊碑があるのを知り、刻まれている姉の名前を初めて確認しました」父基次(57)は自宅近くで被爆し、収容された矢賀小で27日死去。

住廣 アヤコ(36)
 安佐郡祇園町(安佐南区)貯金保険課おい福原正博は「8年前に他界した母は、姉アヤコさんの祇園尋常小学校や進徳高女の卒業証書を保存し、今も残っています。ただ遺骨が見つかったかどうかは分かりません」。

祖羅 カズコ(18)
 広島市水主町(中区加古町)の親類宅に下宿。実家は、賀茂郡志和堀村(東広島市)貯蓄業務課8月6日兄祖守が向かうが、遺骨は不明。姉マツコは「妹が幼かったころ、きょうだい3人で広島のえびす講に行ったことがあります。黒と水色のしま模様柄のモスリン(平織りの織物)生地を買い、妹の着物を作りました」。

高井 清美 井 清美(19)
 広島市金屋町(南区)貯蓄業務課8月6日父正吾らが捜すが、遺骨は不明。妹光子は「姉が嫁ぎ先に持っていこうと自ら縫っていた着物は戦後、家族の食糧に換わりました。母は姉の形見を手放すたび、情けなさそうに泣いていました」妹節子(18)は自宅で被爆した後、下痢などの放射線後障害が続き、翌46年12月24日死去。

高角 為一 高角 為一(51)
 広島市愛宕町(東区)貯金保険課8月6日遺骨は不明。小学2年だった四女一恵は「どんな姿になってもいいから、父に生きていてほしかった、と子どものころから思いました。33回忌の際、お墓の骨つぼを開けると、母が郵便局から受け取った分骨と思っていた骨は、真っ黒に焦げた茶わんのかけらでした」。

隆杉 チヱコ(21)
 広島市広瀬元町(中区)郵便課8月6日遺骨は不明。広島電鉄に動員され、木炭自動車の修理をしていた第二国民学校(現・観音中)2年だった義弟正之は「召集された兄の代わりに原爆の約半年前から、家族3人の暮らしを支えるため、勤めるようになりました。立派な姉だったと思います」長女美津子(3つ)は自宅で爆死し、同居していた夫の祖母トナ(61)は安芸郡中野村(安芸区)で9月2日死去。

名前 高丸 正(34)
 広島市水主町(中区住吉町)郵便課8月6日弟儔が爆心2・5キロの南観音町の広島印刷で被爆後に捜すが、遺骨は不明。「兄はシャツを贈ってくれたり、私の息子の散髪をしたりするなど世話好きでした。応召されていた原爆の1年前に胃を手術したため除隊となり、療養後に再び勤めるようになりました」

竹田 勇太 竹田 勇太(50)
 広島市南三篠町(西区小河内町)郵便課8月6日長男忠美夫婦が捜すが、遺骨は不明。長男と16歳で結婚したばかりの妻ミサコは「呉の海兵団から休暇で戻っていた夫との3人で5日、安芸郡熊野町の私の実家から米や小豆、ゴボウなどを自転車に積んで運びました。しゅうとと話すのも恥ずかしく、二人の後をついて歩くだけでした」長女文子(3つ)は、自宅で被爆し、22日死去。

竹本 ヨシコ 竹本 ヨシコ(20)
 広島市白島西中町(中区)に下宿。実家は安佐郡伴村(安佐南区)貯蓄業務課8月6日父襄造と弟照雄が捜すが、遺骨は不明。江波町の三菱重工業広島造船所で被爆した修道中4年の弟は「8月1、2日と休暇を取って実家に戻り、家でついたもちを持ち帰りました。『職場で配ると大変に喜ばれた』と書いた手紙が、最後の音信になりました」安田高女1年の妹文子(12)は、現在の平和記念公園西側の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。

貯蓄業務課の竹本ヨシコさんの賞状や祝儀袋。戦時下の「逓信報国分団」による珠算や郵便物の仕分け大会で、局員らが日ごろの腕を競い合った(弟照雄さんが保存)
死没者の氏名(年齢)
職業遺族がみる、また確認した被爆状況1945年8月6日の居住者(応召や疎開は除く)と、その被爆状況=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、公刊資料に基づく。年数は西暦(1900年代の下2けた)。(敬称略)

竹谷 フミヱ 竹谷 フミヱ(17)
 安佐郡深川村(安佐北区)の祖母宅に下宿。実家は安佐郡三入村(安佐北区)貯蓄業務課8月6日父篤ノ助らが捜すが、遺骨は不明。おい義信は「市内で働いていた娘二人を捜すため、祖父母や父が家を留守にし、麦の種まきができなかったのを覚えています」県軍需課勤務の姉シスヱ(21)は出勤したまま、遺骨は不明。

竹本 三代子(22)
 広島市尾長町山根(東区)貯蓄業務課8月6日遺骨は不明。町内から建物疎開作業に動員され、爆心1・6キロの鶴見橋西詰めで被爆した姉シズヱは「妹は、道端に生えるヨモギ入りのおかゆや、中身がすかすかで揺らすとおかずが片寄る弁当を恥ずかしがり、職場で人目を避けて食べていたと母から後に聞きました。今も、ふびんでなりません」。

田坂 忠夫 田坂 忠夫(38)
 広島市仁保町(南区)検閲課8月6日遺骨は不明。85歳になる妻美津代は「夫は手紙やはがきの検閲を命じられていたようです。原爆の年の10月ごろ局に呼ばれて再び跡に行き、見覚えのある鎖が付いた夫の自転車の残がいを見つけました。5人の子どもを育てるため働きに出ましたが、あのころの苦労は思い出すのも嫌です」。

伊達 甲子 伊達 甲子(まさこ)(21)
 広島市十日市町(中区)貯蓄業務課8月6日遺骨は不明。実践高女1年だった妹和子は「自宅跡で両親の遺骨を捜すのが精いっぱいでした。8月6日は、平和記念公園での式典には行く気になれず、寺町にあるぼだい寺へ参っています」時計店経営の父唯治(55)と母トワ(43)は爆心800メートルの自宅で爆死。妹昭子(16)は、爆心710メートルの福屋百貨店6階にあった中国海運局に勤め、遺骨は不明。

谷口 藏六(58)
 広島市段原新町(南区段原3丁目)貯金保険課8月6日遺骨は不明。46年に中国から復員した長男博は「通信兵だったので広島が新型爆弾でやられたと7日に青島(チンタオ)で知りました。母の実家である高田郡根野村(八千代町)に戻り、縁故疎開していた小学生の妹と弟を農業をしながら育てました」妻イサヲ(50)は、泊まり勤務の夫に弁当を届けに行く途中の的場町で被爆し、根野村で9月10日死去。

谷本 トシヱ(19)
 広島市仁保町(南区)貯蓄業務課8月6日祖父辰次郎らが捜すが、遺骨は不明。戦後生まれのいとこ政子は「両親やきょうだいはペルーへ移民し、長女だったトシヱさん一人が祖父母といたそうです。きょうだいは今もペルーでクリーニング店を営んでいるそうです」。

谷本 美代子 谷本 美代子(28)
 広島市舟入町(中区)貯金保険課8月6日山口県玖珂郡に住む夫の妹渡辺春子らが捜すが、遺骨は不明。当時1歳だった長男和雄は「父が応召し、母は私を玖珂郡に疎開させて働いていました。母の顔は写真でしか知りません」。

辻 美知江 辻 美知江(23)
 広島市内に下宿。実家は岡山県上房郡有漢村(有漢町)貯蓄業務課8月6日母クマが8日に着いて捜すが、遺骨は不明。義理の妹とみ子は「義母は疎開するまで家族でいた広島がやられたと知り、汽車の切符が取れないまま無理やり乗り込んで向かったそうです。長女の美知江さんは2日から有漢村の実家で過ごし、5日に広島へ戻ったと聞いています」。

津田 元三(40)
 広島市河原町(中区)郵便課8月6日遺骨は不明。静岡県に住むおい明雄は「元三さんの弟に当たる父は、昨年8月に他界しました。広島鉄道病院で被爆した父と親族の慰霊のために、今年は平和記念式典に初めて参列しようと思います」長女百合子(10)、二女美代子(8つ)、二男利夫(6つ)、三女正子(5つ)、四女元子(3つ)、五女定子(生後4カ月)の家族6人は爆心800メートルの河原町で爆死。

坪島 克司(36)
 広島市中広町(西区)貯蓄業務課8月6日遺骨は不明。助産婦をしながら娘二人を育て、88歳になった妻清子は「ゲートルをひざ近くまで巻き、かばんを肩に下げて出る夫の後ろ姿が、目に焼き付いています。『空襲に備え、子どもを連れて早く実家に疎開しろ』と気遣う優しい夫でした」。

寺本 友次郎(60)
 広島市舟入本町(中区)貯金保険課8月6日長男の妻愛子が捜すが、遺骨は不明。

寺本 陽一(36)
 広島市舟入本町(中区)郵便課8月6日遺骨は不明。83歳になる妻愛子は「夫はあの朝も、『空襲があったら荷物を疎開させた古田町に逃げろ』と申して家を出ました。上は8歳から下は生後3カ月の4人の子を抱え、戦後はミシンを踏みながら生きてまいりました」。貯金保険課勤務の寺本友次郎の長男。

土井 キミコ 土井 キミコ(37)
 広島市台屋町(南区京橋町)庶務課8月6日遺骨は不明。安佐郡深川村(安佐北区)に疎開していた比治山高女1年の長女純子は「学徒動員で竹屋町の建物疎開作業に出るため、前夜は自宅で久しぶりに母とまくらを並べました。6日朝、母は『戦地にいる父さん、兄ちゃんが無事に帰るまで頑張らんといけんね』と言いながら、着物をほどいて作ったふじ色のモンペをはき、一緒に家を出ました」。

道舊 鈴枝 道舊(どうきゅう) 鈴枝(21)
 広島市三滝町(西区三篠町3丁目)庶務課8月6日妹幸枝らが捜すが、遺骨は不明。おい反田一彦は「6年前に他界した母幸枝は原爆のことは語りたがらず、戦後生まれの私にとって、伯母は母が保存していた形見で知るだけです」。

土浪 登一(49)
 広島市水主町(中区住吉町)貯蓄業務課8月6日遺骨は不明。広島西消防署吉島出張所から宿直勤務明けで帰る途中に被爆した長男昭三は「小学生だったころ、自宅で夕食をとった後も顧客の家を訪ねる父について行ったことがあります。仕事一筋でした」。

殿敷 寛 殿敷 寛(36)
 広島市幟町(中区)貯蓄業務課8月6日世羅郡津久志村(世羅西町)にいた妻重野と長女紋子らが捜すが、遺骨は不明。小学3年だった長女は「父は『空襲があっても、男一人なら身軽に動ける』と言い、私たち3人を父の実家に疎開させていました。5日に訪ねて来た津久志村で、川釣りに行ったのが父と過ごした最後でした」。

冨田 弘 冨田 弘(ひろむ)(51)
 広島市牛田町(東区)貯蓄業務課長8月6日郷里の島根県隠岐郡西郷町に住む長女淑子は「父は西郷町から広島に単身赴任し、帰って来られるのは年に1、2回くらい。伯母の息子が捜しに行き、課長だった父の机の跡辺りに散らばる骨を木箱に納めて持ち帰りました」。

中木 キヨコ(29)
 広島市舟入町(中区)郵便課8月30日爆心930メートルの広瀬神社近くで集配業務中に被爆し、応召中だった夫仁喜雄の郷里の山県郡南方村(千代田町)で30日死去。84歳になる妹冬子は「徴用で郵便局に勤めるようになったと聞いています。姉の娘が知らない人に育てられるよりはと思い、義兄のもとに嫁ぎました」二女ミチコ(5つ)は爆心1・2キロの自宅で被爆し、南方村で9月19日死去。

中田 関造(42)
 安佐郡伴村(安佐南区)庶務課8月6日妻貞子が捜すが、遺骨は不明。「6日朝、『米軍機が広島を攻撃する宣伝ビラをまいたが、その後は飛んで来ないので世話はない』と出て行きました。5月に結婚したばかりでした。あわれなことです」。

中野 末太郎 中野 末太郎(37)
 広島市材木町(中区中島町)郵便課8月6日兄菊藏が郷里の鳥取県東伯郡旭村(三朝町)から訪ね捜す。おい辰美は「局に勤めていたとは聞いていますが、兄に当たる私の父は25年前に他界し、詳しいことは分かりません」妻ハナ(40)と二女奈良枝(16)は、平和記念公園となった材木町の自宅で爆死。

中野 俊江 中野 俊江(20)
 広島市段原中町(南区)貯金保険課8月6日女子てい身隊として爆心2・8キロの陸軍兵器補給廠へ徴用されていた妹晴代が捜すが、遺骨は不明。妹は「6日朝、物静かな姉がいつになく『今日から忙しくなる』と、慌てて家を出たのを覚えています。男手がどんどん兵隊にとられていたのだと思います」。

中本 七郎 中本 七郎(28)
 安佐郡口田村(安佐北区)郵便課8月6日父常吉らが捜すが、遺骨は不明。3歳だった長男俊明は「5日夜は泊まり勤務だったと聞いています。祖父と親子2代にわたり広島郵便局に勤めていました」。



夏木 澄江 夏木 澄江(22)
 広島市白島方面(中区)に下宿。実家は豊田郡船木村(本郷町)貯蓄業務課8月6日義弟の繁樹は「一昨年に98歳で亡くなった母イサノは、当時のことをあまり話さず、遺骨が見つかったかどうかも分かりません。仏壇の引き出しに、澄江さんの写真を引き伸ばして大事に納めていました」。

西手 俊秋 西手 俊秋(19)
 佐伯郡原村(廿日市市)郵便課8月6日兄勝が捜すが、遺骨は不明。兄の妻トヨ子は「一緒に住んでいた義弟は、前夜から宿直勤務でした。遺品を整理すると、私が大竹の三菱化成で働いていた際にもらった白い布で作った、たった一着のワイシャツを着て出ていたのが分かりました」。

西原 要(30)
 広島市尾長町山根(東区)貯金保険課8月6日妻十七ヱが前年に生まれた長男を背負って捜すが、遺骨は不明。78歳になる妻は「長男を抱いては『もし自分に何かあったら、この子を頼む』と口癖のように言っておりました。学友が次々と入営し、本人も再度の召集令状が来るのを覚悟していたようですが、無念の死となりました」。

西原 美代子 西原 美代子(21)
 広島市皆実町2丁目(南区)貯蓄業務課8月6日母コイワらが捜すが、遺骨は不明。呉海軍工廠に動員されていた広島市立第一工業学校3年の弟寛司は「救援物資を運ぶ海軍工廠の船で7日、広島に入りました。昼すぎに着くと、兵隊が正面玄関跡に集めた白骨が1メートルぐらいの高さになっていました。肉親を捜しに来た人たちは、互いに無言のうちにたたずみ、何とも言えない光景でした」。

西本 壽市 西本 壽市(45)
 広島市河原町(中区)貯金保険課8月6日妻カハヨが捜すが、遺骨は不明市立第一工業学校4年の長男惠一(15)は、江波小内の救護所で9月18日死去。二女充子(5つ)と二男稔(2つ)は自宅で被爆し、母に連れられて逃げた舟入川口町でそれぞれ9月1日、3日に死去。

野吹 〓太 野吹 (60)
 広島市旭町(南区)郵便課8月6日勤務先の陸軍運輸部(南区)で被爆した五女時子らが捜すが、遺骨は不明。「父は仕事から帰ると、糖尿病で目を患っていた母の代わりに、配給米から石を取り除いていました。生きていくのに懸命で、家族団らんの思い出はほとんどありません」日本勧業銀行(現・第一勧業銀行)広島支店に勤めていた長男数夫(36)は、職域義勇隊として県庁北側の水主町(中区加古町)での建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。

野村 正志 野村 正志(38)
 広島市打越町(西区)庶務課8月6日兄賢三が捜すが、遺骨は不明。姉の長女睦子は「軍国主義が次第に色濃くなった30年代、同僚に共産党の人がいたことから、特高警察が叔父にまで目をつけて家に踏み込み、叔父の日記を没収したことがある、と母から聞きました」。

橋国 守 橋国 守(41)
 広島市段原新町(南区)貯金保険課8月6日広島市女2年だった長女浮子が爆心2・3キロの自宅で被爆した後に捜すが、遺骨は不明。長女は「6日朝、建物疎開作業の動員でいったん家を出ましたが、体が思わしくなく途中で自宅に引き返すと、父は『具合が悪いなら今日は一緒にいてやろうか』と言いながら出勤しました」。


死没者名簿(その1) 死没者名簿(その3) 死没者名簿(祇園高等女学校・本川国民学校) 新たに確認できた死没者