2000年4月5日
2 戦場ツアー
バークリー地図キャサンドラ・ガーナーさんケージ内の2羽のインコを見つめるキャサンドラ・ガーナーさん。「私をいつも慰めてくれるの」(カリフォルニア州バークリー市)

汚染知らず駆け回る 進む病状 職就けず

 カリフォルニア州バークリー市のアパートの一室。香のかおりが漂う部屋で、キャサンドラ・ガーナーさん(30)は、湾岸戦争時のアルバムをくった。

 高熱に焼かれて炭化したイラク兵の死体。その死体にカメラを向けるアメリカ兵。劣化ウラン弾で破壊された戦車の上でポーズを取る、引き締まった体形のガーナーさん…。

  地上戦終了後10日

 「これらの写真は、部隊のみんなと戦闘のあった現場へツアーに出かけた時のものなの。クウェート市からイラクのバスラへ通じる『死のハイウエー』と呼ばれた辺りよ」

 カリフォルニア州兵のガーナーさんらは、一九九一年二月初旬にサウジアラビアへ。イラク国境近くのキャンプで、他の部隊とともに数万のイラク兵捕虜を監視した。地上戦が終わって十日余りが過ぎた三月上旬。部隊長から「後学のために戦場体験ツアーに出かけよう」と提案があった。

 「同じ戦場でも、私たちは砲弾が飛び交う前線にはいなかったでしょう。どんな感じなのか、若いみんなは好奇心いっぱい。興奮して出かけたわ」

 膨大な数のイラク軍戦車や装甲車、トラックが破壊されていた。その間を走り回って写真を撮ったり、戦場の「土産品」を探し求めた。破壊された戦車の中にまで、何度かもぐり込んだ。他の部隊からも大勢の見学者がいた、という。

 戦車の表面や砂漠の地表に降り注いだ劣化ウランの微粒子は、風や軍靴の一けりで再び空気中に浮遊。容易に体内に入り込む。

 「私たちはほんとにキッズ(子ども)だった。むごい死体に無感覚だったり、劣化ウランのことなど何も知らずに、汚染地帯を駆け回っていたんだから…」

 ガーナーさんにはその後、戦場ツアー以上に危険な任務が待っていた。五月初め、同じ隊の約百五十人が帰還。が、彼女と男性二人は他の場所へ移る。米国へ運ぶ戦車や装甲車を洗車するのが任務だった。

 「なぜ選ばれたのか今でも分からない。とにかく三週間、砲弾の貫通痕が残るイラクの戦車や自国の戦車などの砂ぼこりを洗い落とした。優に百台はあったわ」。任務を終え、彼女が帰還したのは五月下旬だった。

  約4カ月中東滞在

 ガーナーさんの体調不良は、サウジアラビアにいる時から始まっていたという。「頭痛や関節痛、それに月経時の大量出血とか…。今まで一度もなかったことばかり」。二十一歳の健康な体は、約四カ月の中東滞在ですっかり変わっていた。

 病状は年々悪化。九三年には健康上の理由で除隊、その間に軍病院の婦人科で二度の手術も受けた。筋肉痛や関節痛で、体中が燃えるように痛んだ。仕事に就くこともできず、近くに住む母親のパールさん(55)や兄弟、友達の援助に頼らざるを得なかった。

  政府にだまされた

 「私が劣化ウランの危険を知ったのは九七年。中東へ派遣された直後には、名前も知らない錠剤を取らされた。そんなことが自分の病気と関係していると思うと…」。信じていた政府や軍にだまされた、との思いが募った。

 「米国政府はよく人権だ、正義だ、平等だって世界に向かって言うでしょう。自分の国でそれが守れなくて、どうして世界の人々にだけ要求できるの」

 ガーナーさんは、自身が病に侵されて、戦争の本質や自国の欺まんが見えてきたという。彼女が九年間で学んだ戦争や社会についての多くの事柄。「正直言って、私には余りにも高すぎる授業料だったわ。でも、もう時間は戻せないわね…」。天井を仰いだ彼女の目には、光るものがあった。
 

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