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父 山崎益太郎さん(故人)、姉 平田孝子さんの手記

山崎仁子(さとこ)
 市立第一高女(市女=舟入高)2年▽幼いころ母が病死し、天神町146番地で父と姉、印刷所を営む叔父夫婦と居住。町内を含む中島地区から県庁があった南の水主町(中区加古町)の建物疎開に学徒動員されて被爆し、駆け付けた父益太郎の背で死去。一帯にいた市女1、2年の死者は530余人。

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背負うた娘が急に重たく その時、こときれていた

 私の家は当時中島の天神町にあった。当時市女の2年生であった仁子(さとこ)がその朝、学徒動員で水主(かこ)町へ県庁・新橋間の疎開跡の整理に出ていたので、その安否を気遣い、その方へ足を向けた。

 元安川に架けられていた、仮新橋はその時既に半分落ちて居た。ちょうど腰の辺りまで水があったが、歩いて渡った。噫(ああ)、何たる悲惨。河原一面砂州よりに無惨にも、何十、何百の少女等(ら)が。或(ある)いは傷つき、或いは眠り、実は既に事切れしか、又(また)は斃(たお)れ、あち、こちに、僅(わず)かに蠢(しゅん)動し、かすかに、ウメキ声が聞こえる。

 驚くことには、どれも、これも、素裸である。シュミーズもスカートも、焼け、身体は茹(ゆで)蛸(たこ)のように赫(かく)黒色になって居る。(中略)。宛(さなが)ら焦熱地獄を目前に見る。

 私はあの時、会社の二階の一室で、夢から醒(さ)めた時は辺りは暗闇であった。それこそ咫尺(しせき)も弁ぜず。一寸先も見えなかった。被爆後何分かたって居た。一瞬気を失って居(お)ったのである。

 それで私が後に想(おも)い及んだのであるが、彼女等もあの瞬間は、恐らく何一つ遮へい物のない露天で爆音と共に、大部分は失神状態に陥り、倒れて居ったことであろう。

 その間に黒煙の猛牙(が)が覆いかかり、生きながら、ジリジリと身を焼かれ、気がついた時は、火だるまとなって、泣き叫び、河原へ転(ころ)げ廻(まわ)ったであろうか、又はその侭(まま)で猛火と共に昇天したものもあったろうか。(中略)

 私は漸(ようや)く仁子を見出した。勿(もち)論身体は焼けただれ、僅(わず)かに腰のあたりに手拭(ぬぐ)いの切れ端と、名札と腰下げが残っている。膚(はだ)は黄色となり、顔はうずばれて居た。(注・広島弁で、むくんだ状態)

 「お父さん、咽喉(のど)が痛い」。私は早速川の水を掌(て)ですくって飲ませた。今にして思えば当然放射能入りである。私の家もこの土手の上にあった。勿論既に焼け落ちている。牛田の親戚(せき)に長女孝子を預けてあり、その安否も気にかかり、仁子を背負い牛田へ行くこととした。

 子どもを負うて、水の中に入って行ったものの、水が腰のあたりまであり、私自身も相当弱っているとみえて、ともすると倒れそうになる。一寸(ちょっと)困って居った。

 幸いこの時川下から、船舶隊の兵隊さんが、舟で救援に来てくれたので、大手町側の岸に渡してもらう。こうして、やがて西練兵場紙屋町入り口まで来た。西練兵場では多勢の人が休んでいた。会社の人も4、5人、見当たった。ここで暫(しばら)く休憩し、再び子どもを背負うて立つ。急に重くなったので、会社の人、竹本君に少し上げてもらう。すると竹本君が「チョッとおろして見なさい」というので何か異状を予感して思わず、ハッとする。その時吾(わ)が子は、こときれていたのである。何とも譬(たと)えようのない思いであった。

 それから骸(むくろ)を負うて、八丁堀から常盤橋を経て、牛田町二重堤防の奥まで行く。途中100メートル歩いて5分休み、150メートル行って10分休み、自分も、倒れそうになり、夢で遠い旅をしているような感じであった。(後略)

山崎益太郎
 爆心0.7キロの中国配電(中国電力)本店で被爆し、奇跡的に助かる。「元安川原の惨」と題した手記原文は、広島市女原爆遺族会が1957(昭和32)年にまとめた『流燈』に掲載。戦後は51年まで中国配電監査役を務め75年、84歳で死去。



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遺体のハエを追いながら 二晩枕を並べて過ごした

 8月6日は爆心2.5キロの牛田町の親戚にいました。一瞬の閃(せん)光と爆風で、畳は床下に崩れ落ち、ふすまや障子は壊れて飛び散り、爆弾が直撃したのかと思いました。叔母と小学2年の従妹(いとこ)と、それぞれが傷の手当てをし、市内が大変らしいと知ったのは、かなり時間がたっていたと思います。

 私の前に現れた父は、全身火傷(やけど)の妹を背負い、腕時計も靴もなくなり、頭に五センチくらいの裂傷が二カ所、血まみれのタオルで鉢巻きをしていました。現在の平和大橋西詰め辺りで妹を捜し当て、よく連れて来られたものだと、今でも、再会の瞬間を思うと、言葉にならないものが胸を突き上げてまいります。

 妹の仁子は、表皮はむけてソーセージの切り口のようになっていました。だんだん腐乱していく遺体のハエを追いながら、私は二晩枕(まくら)を並べて過ごしました。

 8日朝になって、隣組の班長さんから遺体処理の連絡が入り、ワラのむしろにくるんだ妹を、父と牛田町の公園まで運びました。幾つも長方形の穴が掘ってあり、既に順番を待つ人が集まっていました。

 日陰のない公園は真夏の太陽がじりじり照りつけ、死体を焼く臭いと煙りの中、やっと順番が来て、前の遺体の焼け残った骨の上に妹をそっと寝かせました。

 火傷ですでに脂気のなくなっている体は、むしろくらいではなかなか燃えません。小枝や葉っぱを集めては、燃え残っている遺体の上にかけました。父と私は、仁子が煙になっていくのをじっと見ていました。焼却中に空襲警報が出たら、水をかけて消すようにと言われていましたが、それだけはなく、ほっとしたのを覚えています。

 妹を小さな壷(つぼ)に入れ、夕日が沈みかけた畑の中の細い道を父と並んで、長い長い自分の影法師と一緒に歩いた時のことは忘れられません。今もこの体験の何分の一も表せないもどかしさと空しさを感じます。

 その後は連日、天神町の家の焼け跡にまいりました。どちらを向いても一面のがれき、川に浮かんだ焼死体など筆舌に尽くせません。1カ月くらいたって、玄関辺りで叔父の白骨が見つかりました。いつも着けていた毛糸の腹巻きが黒焦げで残っていました。根気よく捜すと、居間の方に叔母の遺骨がありました。工場の印刷機の下にあった人骨は、父がいろいろ調べましたが、今もってどなたか分かりません。牛田の叔父は西練兵場で被爆し、1カ月後に亡くなりました。

 被爆後、私は脱毛と歯ぐきからの出血が続きました。最初の原爆検診は昭和33年ころだったかと思います。白血球が3000以下でした。当時、小学生の長男と幼稚園児の長女、二人の子どもをながめながら恐怖や不安、不眠に悩まされました。今は子どもたちは独立して、3人の孫を抱く幸せを味わっております。病気と仲よく付き合って今日まで命をいただいていることは感謝しております。

 父は、私の結婚後、広島を離れるのを拒み続け1人で暮らしました。主人の仕事の関係で転勤が多く、この横浜の地に来て晩年の父と5年ばかり同居できました。住民票は広島に置いたまま、原爆死した妹のことが最後まで忘れられなかった父の様子と、被爆した時のことは、いつまでも消えることのない痛みです。

平田孝子
 被爆時、広島県立第一高女(皆実高)4年。45年4月、西日本防衛のかなめとして設けられた第二総軍司令部(広島市東区)への学徒動員準備のため、司令部に近い東区内の叔父宅にいた。横浜市在住。68歳。

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