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ヒロシマ打電第1号 レスリー・ナカシマの記事全文

米国ニューヨーク・タイムズの45年8月31日付に掲載されなかった部分は《》で示す。()は注記。

▼消えたヒロシマ 記者は目撃した (1945年8月31日付ニューヨーク・タイムズの見出し)

 一発の原子爆弾で消滅した街と、現地を訪れた後に語る。以下の特電は、大戦のぼっ発時までUP東京支局に勤めていたレスリー・ナカシマの記事である。戦争でナカシマは拘束されるであろうと覚悟していたが、日本の警察はしなかった。(UPによる前書き)

 レスリー・ナカシマ 東京8月27日発=UP
 《日本が本土決戦に突入せず8月15日に降服したのは、ソ連の対日参戦よりも、あの原爆によるものであることを広島で起きたことを見れば、当然の結論だと思うであろう。》
 広島は、8月6日朝に巨大な空の要さいから投下された1発の原子爆弾により壊滅した。
 人口30万人だった街には、完全な形の建物は1つとしてない。死者は計10万人に達したとみられ、原爆の紫外線によるやけどで今も毎日、死者が出ている。
 米国の科学者たちは、原爆は破壊した地域に長期に影響を与えない、という。(この部分は原文にない。ニューヨーク・タイムズが挿入したとみられる。当時の米政府や原爆開発科学者は、放射線などによる後障害の影響を否定していた)
 私は8月22日午前5時、広島市の郊外に住む母を捜すため広島に着いた。
 列車から降りると、西日本で大きな駅の一つだった広島駅は見る影もなかった。残っていたのはコンクリートのプラットホームだった。


▽破壊に言葉を失う (ニューヨーク・タイムズの小見出し)

 駅舎のレンガの壁は粉々に砕け散り、原爆の破壊力のすさまじさを物語っていた。
 目の前に広がる廃虚を前に、私は言葉を失った。
 駅の南と西に広がる中心街は壊滅し、東と南、北側にある山のふもとまで一望できた。
 文字通りかつての30万都市は消えていた。
 視界に映るのは、ビジネス街にある3つのコンクリート造りの建物の外観だけだった。7階建てのデパート(8階建ての福屋百貨店。米国式に1階は地上階として算入していない)と、5階建ての新聞社(中国新聞社新館)、2階建ての銀行(日本勧業銀行広島支店)である。
 レンガの塀の一部と焼け焦げた地下ごうのほかは、家屋らしき痕跡はなかった。トタンさえほとんど見当たらない。焼い弾の攻撃を受けた日本の他の都市では火が収まると、《家屋はまるでトタンでできているかのように思えるほど》散らばっているというのに。
 私は母が住む郊外(広島市仁保町、現在の南区)に向かいながら、目の前の光景が信じられなかった。というのは、ほんの2週間前に妻と2人の娘を広島から中央日本(長野県)に疎開させた時、街は無傷であったからだ。
 広島は、散発的にB29の襲来はあったものの、《西日本の小都市への激しい空襲にもかかわらず、》焼い弾の雨に見舞われたことはなかった。
 《海軍基地がある近くの呉は幾度も激しい空襲の標的になっていたにもかかわらず、広島市民はなぜ狙われないのかを不思議に思っていた。》


▽何マイルにも広がる被害 (ニューヨーク・タイムズの小見出し)

 いずれにしろ、私は母が無事かどうかを案じつつ、がれきの中を歩きながら、1発の原爆の驚くべき威力により市全体が壊滅したのを実感した。
 中心街から2マイル(3.2キロ)の場所も、家々は損壊し、その多くはすさまじい圧力を受けたかのように押しつぶされていた。その地点からさらに0.5マイル(0.8キロ)離れた地点でも、原爆が巻き起こした爆風のすごさを証明するように、壁は壊れ、屋根は落ちていた。母の家も同じようなものだった。
 しかし、母は無事であった。母は中心街から南東におよそ2マイル(3.2キロ)離れた親類の畑で草むしりをしていた最中にせん光を見た。
 とっさに体を地面に投げ出したという。次の瞬間、耳にしたのは恐ろしいまでの爆発音だった。顔を上げると、街のあらゆるところから白い煙の柱が空高く上っていくのが見えた。
 母は、次に何が起きるか分からなかったので、力を振り絞り走って逃げたという。《母が原爆の紫外線でやけどを負わなかったのは、驚くべきことである。》
 《かつてホノルルに住んでいたハツノブ・ワタイ夫人の場合は、足が悪く助かったと話した。歯医者に行くため近所の知人と連れ立って、午前八時ごろ郊外にある家を出た。
 足が悪く、知人に遅れた。午前8時15分ごろ、中心街から約2マイル(3.2キロ)に差し掛かったところでワタイ夫人はせん光を見た。その瞬間、田んぼの稲の中に身を投げ出したので、原爆の紫外線によるやけどを免れた。
 続く瞬間、大きな爆発音がし、煙の柱が空に舞い上がった。その光景を、彼女は「生き地獄」と表した。彼女は逃げ、野菜畑に避難した。
 先を行っていた知人は、顔と体にひどいやけどを負い、亡くなった。やはりホノルルにいた夫のワタイ氏は、原爆投下の折に広島駅にいたが、奇跡的に助かった。
 ワタイ氏は、頭上で光った瞬間に地面に伏せ、多くの人が彼を踏んで逃げたのを覚えていると話した。
 彼は駅舎に向かったが、崩れ始めたため、そこから逃げ出して助かった。
 ワタイ氏にやけどはなかったが、原爆のガスを吸って病気になり、今も治療を受けている。》
 母の家の近くにある学校は、やけどをした人たちのための野戦病院(仁保国民学校に置かれた救護所)となった。しかし、大半の人は助からないだろう。
 犠牲者の多くは判別がつかない。この病院だけで毎日2、3人が死んでいる。
 中心街から3マイル(4.8キロ)にあるこの場所でも、野菜畑の葉っぱは焼け、野菜もいずれすべてだめになるとの恐れが生じている。
 《原爆投下から2週間後も、廃虚の街はそのまま見捨てられた状態にある。路面電車による輸送システムを復旧しようとする試みも行われていなかった。
 とにかく街を回復しようとする動きがなかった。地面に染み込んだウラニウムの影響で人々が病気になるとの警告があり、破壊された地域への復帰を遠ざけている。
 救護に当たった多くの兵隊たちが患ったと報告された。このため、活動は停止している。
 このような情勢から、75年間は人は住めないだろうという米国の情報は、本当かもしれないとの不安が日本の当局から起きている。
 私は8月22日、知人の家の跡を捜して2時間ほど破壊地域を歩いた。東京行きの列車に乗るため、翌23日、広島駅で3時間ほど過ごした。
 その間、ウラニウムを吸ったに違いない。食欲が減退し、決して激しい活動でなくても疲れてしまう。
 死没者は相当数になると、私は聞いた。というのも、原爆の当日、広島県知事は空襲に備えて防火道路をつくるために、一般市民を木造家屋の取り壊し作業に従事するよう呼びかけていた。
 何千という中学生の男女も犠牲となり、行方不明者の数は驚くばかりである。
 日本の当局は、最初は原爆の影響を過小評価していたが、無条件降伏後は詳細を発表している。》



 

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