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「原爆体験記」 小川春蔵

(08年3月 6日)


 昭和20年8月6日午前8時15分、我等(われら)が郷土広島は一瞬の間に死の街と化した。地上のあらゆる物總(すべ)て打(ち)壊され、焼け盡(つく)され、幾万とも知れぬ同胞は無惨にも戦争の現実に生きる権利を剥奪(はくだつ)されたのだ。

 自分はかつて徴用工員として市外向洋の東洋工業(注・マツダ)兵器部に勤務して居た。あの瞬間微傷だにもせず、東部郊外の難民の右往左往する中を脱出し、市の南部を迂回(うかい)して未(いま)だ人影なき酸鼻目をそむけるさながら地獄絵図の中を行く如(ごと)き、惨憺(さんたん)たる被害地の中を右に左に何千とも数知れぬ爆死者を眺(なが)め、材木町の我が家を求めて帰つて来た。神佛(かみほとけ)の加護を願ふのが無理か、奇蹟(きせき)を頼むのが間違いか。今は一塊(かい)の焼土と化した我が家の辺り を呆然(ぼうぜん)と眺め乍(なが)ら、戦争の恐(ろ)しさをつくづくと感じないではいられなかつた。今朝家を出る迄(まで)は、まさかこんな事になろうとは夢想だにもしなかつた。歳(とし)老いた母は、所用にて昨日田舎へ行き、妻逸枝(注・本名イツエにあてた漢字)が一人家を守って居た。

 足下から見渡す限り無惨な焼死体が散乱してゐる。昨夜まで警報毎(ごと)に退避して戦争話の華を咲かして居た隣人が、学業を捨ててシャベルを握つた勤労学徒、近郊農村より勤労奉仕の農民達、点々壘々(るいるい)無惨な黒焦(げ)死体となつて8月の太陽に晒(さ)らされて居る。

 其(そ)の間を男女の判別もつかない程(ほど)焼けただれた身体を僅(わず)かに腰の辺りをかくす程度のボロ切れに包まれた怪物?がうろついて居る。怪物としか思はれない其の姿だ。顔は眞(っ)黒焦(げ)、同じ両手を胸の辺りに支へて、僅かに開いた両眼(め)で自分等を見つけて「水を頂戴(ちょうだい)」と哀願して居る。これでは親兄弟が一寸(ちょっ)と見ただけでは判別はつかないであらう。彼等は自らの家に帰る事がわからないのであらうか、いつこう帰らうとしない。或る者は腰を地に下ろして何か考へて居るのか救助を待つのか、将又(まさにまた)死の手を待つか動こうとしない。(中略)

 指導者達よ、是(これ)を何んと見る。此の哀れな学徒達の姿を。彼等はひたすら勝つ為(た)めに、勝つ為めに、春秋に冨(と)める十有余年の生命を只(ただ)皇国護持の一念に専心報国の誠(まこと)を盡して居たのだ。そして酬(むく)はれたものは、此の悲惨な姿なのだ。近所の幼児達は、2、3人手をつなぎ合つたまま土壁の蔭(かげ)に半分埋まつて死んで居る。姉らしき子は、弟を已(おの)が身を持つてかばうようにして、うつぶして死んで居る。

 近隣の人達は、市中はなれた勤務先から、近郊の疎開先から1人2人と帰つて来る。我が子を親を兄弟を探し求める声が辺りに多くなつて来た。無惨な我が子を探し当てたか、焼死体を抱き号泣して居る母親、1個々々死体をのぞき見乍ら安堵(あんど)やら不安やらつきまぜた表情にて行き過ぎて行く。太陽が己斐の山に沈む頃(ころ)、その声は最高潮に達す。

 自分等は、辺りに焼けづに散乱している急救袋を拾い集め、中をのぞけば薬品類、塩の利いたいり豆、蜜柑(みかん)の鑵詰等(かんづめなど)、汽車電車の定期券は人目のつく所へ並べ置き、辨当 (べんとう)を探し出し、誰かが拾つて来た鍋(なべ)で雑炊をたき、申し訳ないが、おいしく頂戴した。

 とつぷり暮れた夜空には、此の惨事を知るや知らずや銀砂を蒔(ま)いた如く星は輝き、南から北へ銀河は、いつもと変(わ)らぬ姿を見せて居る。今夜は流石(さすが)に蚊は1匹も居ない。遠くの方で何か破裂するらしく「ぽんぽん」と爆音が聞(こ)へて来る。何時頃であらうか遠方でサイレンが鳴つてゐる。空襲警報だ。今では遠い国の事の様に感じられる。助けを求める声、探す声は陰惨に夜風を振るはしている。夜更けと共にそれ等(ら)の声も段々と少くなつて行く。淋(さび)しさはひしひしと胸をしめつけて来 る。心身共に疲れて居れど眠れそうにない。

 周囲の人達は思い思いに枝等を拾つて来て横になる。寝むつて居るのか考えて居るのか話し声一つしない。そのうちどこからかいびき声が聞こへて来る。軍属の人らしい。薄着の体に夜更けの風がそぞろ寒い。木切れを拾つて来て焚(たき)火をする。逸枝は何處(どこ)に行つたのであらう。此の状態では、生命は絶対にない。せめて骨なりと拾ふ迄で頑張ろう。

 あちこちの火災の中に不気味な青い炎がめらめらと燃へている。あの炎の下で多くの人が白骨と化しているのであろう。今朝からの事が次々に思(い)出される。初めて焼死体を見た時、路上の水槽の中で全裸の女学生の折り重なり両手を上げ救(い)を求めた其のままの姿、井戸の底、防空壕(ごう)の中の死体、若い婦人に殺して呉(く)れと呼びかけられた時、等々。(中略)

 7日の朝は、昨夕と変(わ)りないままに明けて来た。夢ではない。やつぱり廃墟(はいきょ)の中に座つて居る。四方を見渡せば焼(け)野ケ原の中にコンクリート建築物が灰色にくすぼつて建つている。何も無い處(ところ)に煙突がぽつんぽつんと壊れもせずに取り残されている。幹だけになつた庭木が淋(さび)しそうに立つている。未だ盛んに地上からは炎が吹き上げている。忘れられていた助けを求むる声、探す声が段々と耳につき始めた。昨夜の中に救助されたか、それとも息絶へたか。負傷者の数は、大分少くなつた様だ。辺りには昨日と同じ事が繰り返されている。それを見る度に、昨日は出なかった涙が今日はよく出て仕方がない。

 親兄弟の再会が涙の中にかすんで見へる。

 死線を越へて恐怖と混乱と炬火(きょか)の中から逃れて来た人達だ。我が家の跡へは近寄れそうにない。近所をぶらぶら歩いて見る。新大橋(注・現在の西平和大橋)の河畔は、学徒達の死体で埋(ま)り凄惨(せいさん)其の極(きわみ)なり。新橋(注・平和大橋)は大破してその河畔にも大勢の負傷者が死体の間に腰を下ろしてじつと河面を見つめている。やつぱり家へ帰ろうはしない。実に不思議でならない。

 疎開先より近所の人達が様子を見に帰つて来る。それ等の人達に辨当や乾パンや煙草(たばこ)を貰(もら)ふ。遠くからサイレンが聞(こ)へて来る。見上げれば晴れ渡つた青空に、敵B29(注・米戦略爆撃機)、1機が銀翼を輝かせて南へ飛んで行く。人々は「BだBだ」と言って少(ちい)さくなつて物蔭に身をひそめる。自分は恐しいとも何んとも感じないのでそのまま座つて見ている。「どかん」と1つ大きなのが落ちてみたらさぞ胸のわだかまりもほぐれはしないかとも思ってみたりする。こんな焼(け)野原へ爆弾 を落(と)した所で仕方がない。亜米利加(あめりか)の産業戦士が我々と同じ様に汗と油で造つたに違いない爆弾だ。持てる国、亜米利加でもこんな無駄な事はするものか。大声で笑つて見たくなる。

 今日も1日空しく暮れんとす。今夜はもう食べる物がない。町内の人達と相談して己斐の方(注・材木町の山本ハナヨさんの実家)に一夜の宿を求めて全員10人余りで行く事にする。行く道々の惨状は目もあてられない。

 西の歓楽境、壽座(ことぶきざ)附近(注・中区小網町)は酸鼻その極なり。

 天満町、福島町と電車道傳(づた)いに西へ行く。焼け残つた電車の中にも生ける姿そのままに腰をかけて息絶へている人もある。鉄橋の枕木はレールの下だけ焼けている。時折醒(さむ)い風が身を包む。己斐は幸ひにして火災より救はれている。

 派出所前で罹災証明書と大きな握り飯を2つ貰ふ。乞食(こじき)の様に路端に腰を下ろしてかぶりつく。己斐駅(注・JR西広島駅)には汽関車は煙りを出して居れど人1人として見へない。山手の家にて一宿一飯の もてなしを受け、破れ屋根より星を眺め乍らまんじりともせず8日の朝を迎へた。今日も灼熱の太陽はじりじりと肌を射す。なつかしき我が家の跡へ帰る。昨夕と変らぬ屍(しかばね)の街だ。他の人達は各々(おのおの)我が家の焼け跡へ散つて行く。

 自分も拾つて来たスコップを手に焼(け)跡へたつ。一掘(り)毎に火が吹き出して来る。ズック靴の底が熱い。小さい置時計が轉(ころが)り出る。焼けただれてはいるけれど大体の形はなしてゐる。長針短針もそのままに丁度(ちょうど)8時30分辺りを指している。我が家は此の時刻頃灰塵(かいじん)に帰したのであらう。

 あちこちと掘る中に遂に白骨を発見す。何んの印(しるし)もなけれど正しく逸枝の遺骨に相違はあるまい。涙と汗が白骨の上に音をたてて落ちて行く。一つ一つ拾ふ度に指先は熱い。瀬戸物の食器に一杯拾い上げ辨当風呂敷(ふろしき)に包む。今迄の緊張と昂奮(こうふん)が一時に足下から崩れ落ちる。疲労は体内を走り巡る。今は何もする元気もなし。呆然と人の動きを見ているばかり。

 そうだ親兄弟の待つ田舎へ帰らう。さらば今は無き我が家よ。思(い)出の町よさようなら。3日間共に暮(ら)した人達に別れを告げ遺骨を肩に、廃墟の中を相生橋に出て護国神社の大鳥居を今は何んの感激もなく左に眺め、紙屋町に至る。此の辺りは被害最も惨裂を極む。広島城大本営跡、つは者共が夢の跡。今はさえぎる物とて無し。歓樂の巷(ちまた)新天地、繁華街金座通り、F(注・福屋)百貨店、映画の殿堂、噫々(ああ)昔の夢よ今何處(いずこ)。京橋川の鉄橋はたたき折られた格好だ。(中略)

 思へば軍都として盛へ、そして軍都として亡び去つた広島。此の廃墟の中から再び広島は生(ま)れて行くだらうか。あの瓦礫の中より生活の可能は見出されようか。此の戦争の続く限り広島は永久に草木も無い砂漠として忘れられて行くだろう。そして日本のあらゆる都市は、此の運命にさらされて行くのだ。我々は何處に行つて生きて行くのだろう。我々の生きて行く大地は、此の地球上には無いのかも知れない。満州事変、支那事変(注・日中戦争のこと。当時の政府が命名)、太平洋戦争と無謀なる戦争の為に。

 明日は此の逸枝の骨を故里(ふるさと)の土へ埋めてやろう。これが亡き妻へのせめてもの慰めであらう。

小川 イツエ(21)
 材木町105番地の自宅で下敷きとなり、徴用で東洋工業(現・マツダ)に出ていた夫春藏が8日、遺骨を確認▼44年2月に同じ高田郡吉田町出身の春藏と結婚し、義母と3人で暮らしていた。4年前に83歳で他界した春藏に代わり、戦後生まれの長男清は「物心がつくと父に手を引かれて8月6日は、原爆慰霊碑に参っていました。男泣きした姿は忘れられません。父の原爆の絵は見たことはありますが、体験記が広島市にあったのは初耳でした。れんびんの深さを思い知り、私の子どもたちにも読ませました」。


 

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