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旧広島市民球場は江戸期の広島城の一部
跡地利用に新たな視点

2009.10.18

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 祈りの場か、にぎわいを演出する集客施設か―。跡地の利用方法がいまだに定まらない旧広島市民球場(広島市中区)。歴史や考古学分野の人たちは、別の視点から論議の行方を見守っている。跡地地下には、広島城の外堀や石垣、城内の住居跡などが埋もれている可能性が高く、跡地開発は江戸時代の城の姿を後世に残すチャンスだからだ。広島市中心部にある跡地利用論議に、「埋もれた歴史」という新たな視点が出てきた。(編集委員・山本浩司)

外堀の価値 城の本来の姿 研究進む好機

 旧市民球場前の広島電鉄原爆ドーム前電停に面した緑地帯。片隅に「広島城外濠(そとぼり)跡」と刻まれた石碑がある。半ば植物に覆われ、気付く人はほとんどいない。

 「旧市民球場跡地の開発は、広島城外堀の石垣という貴重な資料にとって、チャンスでもあり、ピンチでもある」とみるのは、城や神社仏閣などの古建築研究の第一人者、広島大大学院文学研究科の三浦正幸教授。「堀と石垣に囲まれている現存の広島城は江戸時代の城本来の姿の10%程度にすぎない。本来の城は、現存の内堀とその外側の中堀、さらにその外側の外堀に囲まれた広大なものだった」と解説する。

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広島城外堀の跡を示す石碑(広島市中区基町)

 外堀とは、城を敵から守る第1関門だ。大まかには、現在の八丁堀交差点付近、白島交差点付近、三篠橋東詰め、市民球場を結ぶ総延長約4キロに及ぶ。

 堀は、底から高さ数メートルの石垣で囲まれ、その上には4メートルほどの土塁(土を盛り上げた壁)が築かれていたと推定される。土塁は松山城などに残っている。江戸時代、城外の町人たちが見ていた広島城の姿は、今とは別の姿をしていたのだという。

 「球場の南西端は、外堀の西の限界部分。限界がどこにあったか分かれば、貴重な成果になる」と広島城の石田彰紀館長。広島城は、1970年代末から30年間にわたり、ビルや学校、地下街などの建設に伴って発掘調査が継続されている、全国でも珍しいケース。それだけに、今回の跡地開発は、これまで手つかずだった部分の研究の好機という。

消滅の歴史 高度成長で破壊に拍車

 外堀の石垣がなぜ貴重なのか―。明治維新とその後の経済発展が大きく関係している。

 日本の行政制度が大きく転換した明治維新は、それまでの統治の象徴であった全国約150の城の存在価値がなくなり、その多くが破壊された。

 さらに、戦後の50年代半ばから60年代半ばにかけて、高度経済成長に伴うビルや道路建設が、全国の地下に眠る資料の消滅に拍車をかけた。

 広島城の外堀も例外ではなかった。明治時代末期以降に埋められ、道や宅地として利用され、静かな眠りについた。その後も都市開発の対象となった部分は破壊されてしまった。

 94年から始まった地下街シャレオの建設に伴う紙屋町交差点付近と大手町付近。新交通システム、アストラムライン建設に伴う西白島交差点付近の計3カ所もその一例だ。

 大手町付近の調査では、350メートル以上にわたる石垣、城への入り口にあった櫓(やぐら)台5カ所などの遺構と中国産の輸入陶磁器の破片などの遺物が発掘された。考察で、櫓台の一部は石垣の後に造られたことがわかり、築城の過程が明らかになった。

 だが、結局は出土した部分は、地下街建設のため破壊され、石垣の一部は県庁前の地下街入り口付近の石垣として保存されている。

 新交通システム工事に伴って出土した石の一部も、アストラムライン城北駅近くの地上に置かれている。

 「石垣は崩してしまえば、ただの石。あったままの姿に積んでこそ残したことになる」と三浦教授は断言する。

今なすべきこと 埋もれた歴史に配慮を 遺構の活用、検討必要

 旧市民球場跡地からは、外堀と石垣以外の資料が発見される可能性もある。石垣の内側部分は上級家臣の住居があった部分で、当時の生活をしのばせる遺物が出土する可能性が高い。

 広島市文化財団の幸田淳文化財課長は「地下部分の保存状態が良ければ、古い下の層から順に調べることで、武家の生活の変化が読み取れるかもしれない」とみる。

 文化財保護法では、ビルの建設などで地下部分に手が加えられる際は事前に発掘調査することが定められている。現在の計画では、広島商工会議所ビルの移築が検討されており、この付近の発掘調査が行われる可能性が高い。

 石垣や堀、上級武士の屋敷跡などの遺構や遺物が発見された場合はどうするのか。その一つが活用である。

 三浦教授は「石垣を保存し、その上に土塁を復元すれば、広島城の本来の姿を後世に伝えることができる」と唱える。広島市中心部という一等地だけに、都市景観を考える際には、歴史的視点も必要だという考え方だ。

 加えて、「平和公園内には高い建物がなく、土塁の内側から見上げる空は、江戸時代の城内の人々が見たのと同じものになる。もちろん原爆ドームにとっても優しい景観になる」と夢を語る。

 石田館長も「跡地利用にはぜひ石垣などの活用を織り込んでほしい」と説く。

 もう一つの道は、遺構部分の地下に影響を与えない方法での跡地利用である。

 幸田課長は「今われわれがなすべきことは、発掘だけではない。そのまま土中に保存し、さらに発掘・調査技術が生まれる将来に残すことも義務」とした上で、「広島の歴史は一発の原爆で破壊され尽くしたと多くの人が思っている。が、原爆ですら奪いきれなかった歴史が眠っていて、その上にわれわれが生きていることを知る必要がある」とも語る。

 都市開発という大義名分による破壊を思いとどまるという、未来の広島市民への思いやりが必要とされている。

 時代の要請は、破壊から保存へと大きくかじを切っている。広島市の中心部という一等地、しかも国有地にある旧市民球場跡地利用の際には、地下に埋もれた歴史に配慮することが求められる。

 さらに、あの場所は元西練兵場であの日、多くの犠牲者が荼毘(だび)に付された場所であることも忘れてはならない。