中国新聞オンライン
中国新聞 購読・試読のお申し込み
サイト内検索
中国新聞トップ > みんなのカープ > 広島市民球場

聖地 思い出最終章

2010.10.22

 旧広島市民球場(中区)が8月31日に53年の歴史に幕を下ろした。1957年の完成から広島の復興を見守り続けて53年。広島東洋カープの公式戦は3182試合を数え、高校野球の舞台として、球児が熱戦を繰り広げた。オープニングゲームに投げた野球人は懐かしみ、多くの市民は多彩な催しを通して親しんだ。(森下敬)

Photo
プロ野球最後の公式戦となった広島―ヤクルト戦。スタンドは3万609人のファンで埋まった(2008年9月28日)

V・高校野球・盆踊り…

 57年7月24日の2万3000人が熱狂した初のプロ野球公式戦、初優勝した75年のチャンピオンフラッグを手にしたカープナインの場内一周…。往時の名場面をほうふつとさせる盛り上がりは91年にもあった。旧市民球場で最後の日本シリーズ、広島―西武戦。3〜5戦のスタンドはすべて満員となった。

 当時、常勝・西武に3勝2敗とした山本浩二監督は「必ず勝って帰ってきます」と高らかに宣言した。しかし、敵地で反撃に遭い2連敗。4度目の日本一は逃した。この年のリーグ制覇を最後に、カープの黄金時代にもピリオドが打たれた。

 高校野球は58年から歓声が響いた。夏の広島大会初の決勝は尾道商が広島商にサヨナラ勝ち。幕切れは最初から劇的だった。一昨年まで決勝の主舞台であり続け、92年は広島工―広島商が延長十五回の激闘、95年には宮島工が大逆転勝利で甲子園初出場を決めた。熱戦を重ね、球児たちは広島の聖地と呼んだ。

 球場を駆け回るカープナインや高校球児は子どもたちのあこがれだった。サッカーやコンサートもあった。盆踊りなどのイベントに参加し、グラウンドを踏みしめた人もいるだろう。「市民球場」と呼ばれて親しまれたボールパークは、市民を楽しませる夢のステージでもあった。

※写真はクリックで拡大します。

image 1 of 8 image 2 of 8 image 3 of 8
image 4 of 8
image 5 of 8 image 6 of 8 image 7 of 8
image 8 of 8
「超満員 うれしかった」 1957年のオープニングゲームに登板 備前喜夫さん

 (オープニングゲームは)2番手で投げて、ようけえ点を取られたことだけ覚えてます。大負けしたので試合の記憶はほとんどない。でも初めてのナイターでスタンドは超満員。これでカープも安泰とうれしかった。
 「新しい球場ができるまでは何とか頑張ろう」が選手の合言葉だった。観客動員が増え、経営が安定するという期待も込めてね。新球場ができても給料はあんまり変わらんかったけどね。
 市民球場のチーム初勝利(57年7月31日・国鉄戦)の際、勝ち投手は私。シーズン20勝も通算100勝も市民球場で達成した。狭くてねえ。投手泣かせの球場を本拠地にしながら115勝できたのは誇りです。
 8年前に退団するまで選手、コーチ、2軍監督、スカウトとして51年間、お世話になった。育ててもらった市民球場は自分の家みたいなもので、そこが壊されるのは寂しい限り。観戦された広島の皆さんも、それぞれの思い出を持っておられるはず。縮小してもいい。野球のできる場所として残してほしかった。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
 びぜん・よしお 尾道西高(現尾道商高)から1952年に入団。「バンビ」の愛称で親しまれ、53年から5年連続2けた勝利。通算115勝149敗。旧姓大田垣。77歳。