今岡 チヱコ(33)
タイヤ修理▼材木町60番地の自宅跡で、復員した夫三郎と弟の新田勇が焼け残った着物のすそから遺骨を確認▼母子3人が死去。弟は「戦争が激しくなるまでは、タイヤ修理工場は3人の工員や販売外交員がおり、繁盛していました。東隣の天神町の実家では母イサヨも即死でした」。
二女 紀子(4)
遺骨は不明。
長男 國秋(1)
遺骨は不明。(注・いずれも遺影なし)
久米 千恵子(18)
中国配電(現・中国電力)勤務▼爆心680メートルの小町(中区)の勤務先で被爆し、父がいた福岡県門司市(北九州市)で10月19日死去▼双三郡三良坂町に4月から学童疎開していた小学6年の弟郭夫は「疎開中に、天神町の公設市場で野菜を売っていた母の仕事の関係から、宇品町に移っていたようです。材木町の自宅は母の知人が留守番として住み、門司から私を迎えに来た父が家で亡くなったその人の遺骨を見つけたと言っていました」。
喜多 ヨシヱ(40)
材木町60番地の1の自宅にいたとみられる。遺骨は不明▼夫と子どもとの8人のうち6人が爆死。爆心約3・2キロで被爆した市立第二高女(現・舟入高)2年の二女秀子は「避難する途中、町内の山本の奥さんと出会い、己斐町の実家に二晩泊めてもらいました。10人ばかり町内の人がおり、その夜は、炎の柱が噴き出す材木町の方をなすすべなく見ていました」。
長女 昌子(17)
中国新聞社庶務課勤務▼爆心870メートルの上流川町(中区胡町)にあった職場に出勤し、遺骨は不明。
三女 喜久枝(13)
本川小高等科1年▼建物疎開作業に動員された爆心900メートルの小網町付近で、姉秀子らが上着とモンペの切れ端を見つけたが、遺骨は不明。弟や妹の4人で縁故疎開していた島根県簸川郡平田町(平田市)から7月末に帰宅していた。
二男 勉(7)
中島小1年▼遺骨は不明。喜久枝と島根県から戻り、町内の誓願寺に設けられた分散教室に通っていた。(注・遺影なし)
五女 記子(としこ)(4)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
三男 衛(2)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
中島 寿子(30)
中島酒店▼材木町70番地の自宅で爆死したとみられる▼母と長男と
の3人が爆死。夫謹治は応召中。戦後生まれの息子は「6年前に他界した父を納骨する際、骨つぼがありましたが、それが原爆で死んだ3人のものかどうかは知りません。父は、私の母を気遣い前の奥さんや子どものことは話しませんでした」。
長男 勉(4)
爆死。
母 小夜子(51)
爆死。(注・いずれも遺影なし)
小野川 小一(45)
爆死。自宅は材木町64番地▼妻子との一家4人が全滅。亡き兄、春一の子どもによると、死亡月日はいずれも8月6日。北隣の中島本町の旧住民が55年に建立した慰霊碑に名前が刻まれている。
妻 房枝(33)
爆死。(注・遺影なし)
長男 博之(14)
本川小高等科▼爆死。高等科の生徒は爆心900メートルの小
網町一帯の建物疎開作業などに動員され、80余人が死去。(注・遺影なし)
二男 隆(6)
爆死。(注・遺影なし)
坂田 寿一(52)
坂田屋洋服店▼材木町62番地の自宅跡で座ったままの姿勢で死んでいるのを7日、三菱重工業広島機械製作所で被爆した長男寿章らが確認▼子どもとの5人のうち3人が爆死。中国塗料に動員されていた広島女子商専攻科1年の長女幸子は「翌年2月に長兄や復員した兄たちと自宅跡にバラックを建て、疎開先からミシンを持ち帰り店を再開しました。玄関の3畳が仕事場で奥の6畳が住まい。無我夢中の生活でした」。
二女 和子(13)
安芸高女(戦後に廃校)2年▼爆心900メートルの小網町一帯の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。
長男の妻 良子(20)
普段、伝票を整理していた店舗跡で遺骨が見つかる。(注・遺影なし)
義姉 古谷 ユキ(54)
炊事場のポンプ跡近くで遺骨を確認。寿一の亡き妻の姉で良子の母でもあり、古田町高須(西区)の自宅から泊まりがけで訪ねていた。(注・遺影なし)
石﨑 豊(36)
石﨑ガラス店▼岩国市の憲兵隊にいた弟末政が捜すが、遺骨は不明▼一家3人が全滅。87歳になる弟は「広島に戻った9月下旬、材木町の兄宅を掘り返し、焼け残った青い蚊帳の切れ端を遺骨代わりに納めました。その年の初め入営が決まり、兄をあいさつに訪ねるとガラスの販売は思わしくないようで、せんべつを置いて帰りました」。
妻 豊子(35)
遺骨は不明。
長男 幸夫(8)
遺骨は不明。(いずれも遺影なし)
住田 泰雄(36) (左から3人目)
塗料卸▼材木町68番地の自宅で爆死。共同経営していた弟克己の妻トミが佐伯郡大野村(大野町)の疎開先から入り、遺骨を確認▼一家5人が全滅。弟の長女睦恵は「母から生前に聞いた話では、家の中にあった井戸を目安に焼け跡を捜したそうです。朝食をとっていたのか、食卓の周りに遺骨が散らばり、そこから少し離れた場所に1歳だった長男とみられる小さな骨があったそうです」。
妻 清子(31)
自宅跡で遺骨を確認。
長女 米子(13) (右)
進徳高女1年▼当日は動員作業の自宅待機だった。遺骨は不明。
長男 保之(1)
母とともに自宅で爆死。(注・遺影なし)
母 ヒサ(59)左から2人目
自宅跡で遺骨を確認。
富山 良七(55)
海軍主計中尉▼遺骨は不明▼一家4人が全滅。めいの藤村冨美子
は「私たち夫婦の仲人を務めた伯父が中国・海南島に行くことになり、伯母たちに山口県玖珂郡広瀬村(錦町)の私の家へ疎開してもらおうと5日、木炭トラックを借りて材木町を訪ねました。伯母は『家族一緒に過ごし、明日6日の昼ごろには汽車で向かう』と言うので、
そのまま引き返しました。あきらめ切れないものがあります」。
妻 千代(51)
和菓子製造「菓子善」▼遺骨は不明。実家は和菓子のしにせで、
軍にもなかを納めていた。
長女 和子(19)
女学院専門学校(現・広島女学院大)2年▼遺骨は不明。
二女 克美(13)
女学院高女▼遺骨は不明。学校の生徒死没者名簿には名前が載っ
ていない。
藤堂(とうどう)公子(20)
県食糧営団勤務▼材木町76番地の自宅から出勤した爆心900
メートルの八丁堀の木造2階建て本部で下敷きとなり、段原日出町
の知人宅で9月1日死去▼母と2人。陸軍被服支廠(しょう)に勤
め、44年末に分散疎開していた比婆郡庄原町(庄原市)にいた妹佳子は「姉は苦しみながらも、被爆からの体験を書きつづっていました。亡くなった後に布団を上げると、『後を頼みます。お母さん、ありがとう』との遺書が見つかりました。姉の手記は戦後、営団の人に求められ貸したところ、事務所の火事で焼けてしまいました」。55番地に住んでいた姉の中島ツル子(32)は自宅で爆死。
中村 仙一(60)
印判店▼76番地の藤堂イワ宅を訪ねていたらしい。遺骨は不明。
中島新町の自宅が建物疎開となったため藤堂宅に荷物を預けて二女弘子と賀茂郡椹梨村(大和町)の親類宅に移ったが、荷物を取りに来ていた。二女の長女由美子は「昨年に他界した母の話では、祖父は5日トラックで広島へ向かう際、母を何度も振り返り出発したそうです」。
おい 平井 靜一(38)
遺骨は不明。伯父仙一の荷物疎開を手伝うため3日、ひと足早く賀茂郡川源村(豊栄町)の自宅を出ていた。86歳になる妻ミツコは「夫は『帰りは6日になる』と言いました」。
石山 唯治(ただじ)(50)
大工▼爆心790メートルの中国軍管区司令部(広島城跡)の南側で兵舎建設中に被爆し、遺骨は不明。自宅は材木町78番地▼妻子との3人。韓国・済州島から11月に復員した長男昇は「当日の朝7時半ごろに作業現場を訪ねた父の幼なじみから、かんなの刃を研いでいたと聞きました。父も、その人も山口県大島郡屋代村(大島町)の出身で、軍がある広島に行けば仕事があると村を出たそうです」。
小鷹狩(こたかり)マサ(69)
材木町78番地の自宅で爆死。爆心2・5キロの牛田町の自宅で被爆した後、捜しに入った五女篠原タカらが遺骨を確認▼タカの二男で高田郡船佐村(高宮町)へ学童疎開していた小学4年の謙一郎は「祖母が石うすをゴロゴロとひく音が家の中からしていたそうです。助かった近所の人から母が後に聞いた話です」。(注・遺影なし)
坂田 政一(47)
坂田洋服店▼材木町78番地の自宅から兄家族が住んでいた62番地の店に行き、朝食の後につめを切っていたのを、立ち寄った妹が目撃。安佐郡狩小川村(安佐北区)を訪ねていた妻マサコが7日、店跡で金歯により遺骨を確認し、ガラス瓶に納める▼妻と2人。狩小川村に縁故疎開していた小学2年の長女眞智子は「父は前日、両親と離れて暮らす私のために勉強机といすを自転車で運んで来ました。川遊びに夢中になっていた私を見て安心したのか、声を掛けずに帰って行きました。父の思いがこもった机は、高校卒業まで使いました」。
竹村 國藏(62)
木箱製造▼材木町78番地の自宅にいたらしい。遺骨は不明▼小学1年だった孫の泰子は「祖父と一緒に木箱を作っていた父がその年の1月に他界し、母と妹との3人で賀茂郡入野村(河内町)の母の実家に疎開していました。原爆の2週間後に戻った自宅跡には、焼け焦げた一台の製材機械の周りに、無数のくぎが熱で溶けて団子のような塊になっていました」。
三好 ヨシ子(37)
材木町78番地の自宅で爆死。舟入川口町(中区)の 佐伯鋼業で被爆した夫茂が6日、焼け残っていた妊婦用の腹帯から遺骨を確認▼家族7人のうち5人が死去。爆心710メートルの福屋百貨店7階にあった広島貯金支局分室に動員されていた広島女子商2年の長女美代子は「母は6人目となる子どもを身ごもっていました。父は当日午後には町内に入り、母の遺骨を見つけた後も弟たちを捜すため、元安川の土手で夜を過ごしたそうです。川に浮いていた魚を手づかみで食べたと言っていました」。茂は後に目撃した様子をクレヨン画=写真=に描いた。
二女 登喜子(13)
袋町小高等科1年▼爆心1キロの雑魚場町(中区国泰寺町)の建物疎開作業に動員され、収容された安芸郡奥海田村(海田町)で14日死去。父茂は、現存する袋町小の西校舎壁面に「加藤先生 本校 二=注・1年の間違い=(八月十六日) 三好登喜子 奥海田国民学校デ死亡致シマシタ 父三好茂」との伝言を残す。
長男 繁治(9)
中島小4年▼遺骨は不明。双三郡三良坂町へ学童疎開したが、前
日に帰宅していた。(注・遺影なし)
三女 博子(6)
中島小1年▼遺骨は不明。(注・遺影なし)
四女 操(3)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
松原 チヨノ(44)
材木町78番地の自宅で被爆し、元安川に逃げたところを、安佐郡古市町(安佐南区)へ食糧を買いに出ていた夫で大工の太吉が見つけるが、10日午前6時ごろ死去▼夫と娘との4人のうち2人が爆死。山県郡上殿村(戸河内町)に縁故疎開していた実践高女(現・鈴峯女子高)1年のめい松田洛は「私の実家が旅館で忙しく、幼いころから毎日のように伯母の家に行きました。伯母は縫い物をしながら、学校での出来事に耳を傾け、夕食を振る舞うなど、わが子のように世話をしてくれました」。
長女 君枝(22)
遺骨は不明。いとこの洛は「逓信局(現・中国郵政局)に勤めていたと覚えています」。
森岡 フジ子(35)
松原の2階に住み、そこで爆死したとみられる▼夫の儀一が応召後は一人暮らし。おいの忠雄は「今回、先祖代々の墓をつぶさに見ると、亡き伯父の名前と一緒に『昭和二十年八月六日 原爆デ死ス フジ子』と刻んであり、身内が原爆で死んでいたのに気づきました。小学3年の孫が原爆について関心を持ち始めており、教えてやりたいと思います」。(注・遺影なし)
竹内 清(44)
歯科医▼材木町98番地の自宅兼医院で爆死。安芸郡音戸町に住むおいの善行地芳渓が7日、眼鏡やベルトのバックルで遺骨を確認▼妻と2人。44年夏まで同居していた芳渓の妹芳子は「西隣お誓願寺は仮兵舎になっており、大勢の兵隊さんが夜遅くまで医院に来ていました。叔母夫婦は、部隊の出発に間に合うよう治療していました」。
妻 千代子(45)
遺骨は不明。6日は、実家の音戸町にある寺の門徒の結納に立ち会う予定で、髪を整えに出ていた。爆心1・5キロの広島赤十字病院前でしゃがんでいたのを知人が目撃したという。
山﨑 利男(32)
「八紘商事」勤務▼材木町93番地の自宅で爆死。佐伯郡三高村(沖美町)に疎開していた叔父が遺骨を確認▼妻と妻の養母との3人のうち2人が死去。広島高師付属中(現・広島大付属高)1年のいとこ恭弘は「利夫さんは、父が塚本町(中区土橋町)で営んでいた八紘商事で私たち家族と暮らし、その年の2月に結婚したばかりでした。材木町の新居は通学路の途中にあたり、空襲警報のサイレンが鳴ると駆け込みました。道端で遊んでいた子どもたちのはしゃぎ声は一転して静まりました」。
妻 ヨシミ(26)
自宅跡で遺骨が見つかる。
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死没者の氏名(年齢) 職業▼遺族がみる、または確認した被爆状況▼原爆が投下された1945年8月6日の居住家族(応召や疎開中は除く)や同居者と、その被爆状況=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、公刊資料に基づく。年数は西暦(1900年代の下2けた)。(敬称略)
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住田 タヅ(65)
製本・印刷業▼材木町81番地の自宅で爆死したとみられる▼孫と2人。佐伯郡五日市町に母たちと疎開していた孫の喜彦は「私の父が兵隊に出た後に店は閉めていたそうですが、詳しいことははっきりしません」。(注・遺影なし)
孫 冨士枝(13)
山中高女(現・広島大付属福山高)1年▼雑魚場町の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。
小川 コト(78)
化粧品販売「をぐら屋」▼材木町87番地の自宅で爆死。爆心3・7キロの三菱重工業広島機械製作所で被爆した長男正一が遺骨を確認▼長男一家との4人。動員作業中にけがをして、同製作所近くにあった広島真宗学寮に入院していた市造船工業学校(現・市商業高)4年の孫正は「祖母の遺骨は、あめ玉のようになった化粧品の瓶とともに見つかったそうです。いつものように奥の座敷に座って店番をしていたと思います」。
大出 満子(33)(左)
大出石材店▼材木町89番地の自宅跡に大小入り交じった骨があったのが戦後に見つかる▼子どもとの5人のうち、動員作業に出た長男を除く4人が爆死。妹信子は「姉は夫が病死した後、新聞配達をしながら一家を支えていました」。双三郡三良坂町に学童疎開していた三男幸男は、県戦災児教育所として開設された似島学園を経て59年ブラジルへ移住し、86年に51歳で死去。サンパウロ州に住む日系2世の妻チヅエは「家族のことはあまり話しませんでしたが、原爆の日はこちらのお寺に必ずお参りしていました」。
四男 光利(7)(右)
中島小▼遺骨は不明。
長女 きくこ(5)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
二女 勝美(2)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
清水 照子(32)
建物強制疎開になった南隣の木挽町32番地から移った材木町で爆死し、遺骨は不明▼一家4人が全滅。夫の兄の長男克徳は「叔父は福屋百貨店に勤め、原爆の3ヵ月前に病死しました。その叔父が生前に建てていた墓に戦後、私の母が照子さんたち全員の名前を刻みました」。
長女 耀子(10)
小学4年▼遺骨は不明。(注・遺影なし)
長男 明生(7)
小学2年▼遺骨は不明。(注・遺影なし)
二女 潤子(1)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
飯間 ヌイ(63)
材木町85番地の自宅跡で、三女ユキ子が8日、遺骨を確認▼子どもと孫との4人のうち3人が爆死。陸軍共済病院(現在は南区宇品神田1丁目の県立広島病院)で被爆した三女は「大家さんだった慶藏院の奥さんがやって来て、台所で母と話し込んでいるのを横目に出勤しました。それ以降、町内の人には、筋向かいの菊の湯の息子さんが家族の消息を尋ねて来られた際に会っただけです」。
長女 坂本 アサヱ(33)
自宅で爆死。結婚して兵庫県尼崎市にいたが、空襲で夫と家を失い、長女栄子を連れて実家に戻っていた。第2子の出産を控えていた。
孫 栄子(6)
中島小1年▼母とともに遺骨が見つかる。
忠岡 かね(50)
材木町93番地の自宅で爆死したとみられる。遺骨は不明▼家族4人が爆死。双三郡三良坂町に学童疎開していた小学5年の三男邦雄は「結婚して尾道市にいた一番上の姉が捜しに行きましたが、その姉も昨年10月に他界し、詳しい様子は分かりません。戦後は、復員した兄2人と広島を引き払い、尾道に移りました」。
二女 久美子(23)
巣守金属工業勤務▼爆心1キロの水主町の工場跡で、遺骨が見つかる。
三女 艶子(16)
女学院高3年▼松原町(南区)の広島鉄道局印刷所に動員され、遺骨は不明。
四女 勲子(13)
女学院高2年▼雑魚場町の建物疎開作業に動員され、遺骨は不明。
大西 密禅(41)
真言宗安樂院住職▼材木町2番地の寺から自転車で外出していた。55年、平和記念公園内の原爆供養塔に遺骨があるのが分かる。被災者が運ばれた似島で死去していた▼妻子との6人のうち5人が爆死。爆心2・3キロの広島地方専売局(現・日本たばこ)で被爆した県立第二高女(現・皆実高)4年の長女董子は6日夕に戻る。「寺の周りに幼児や児童、建物疎開作業に動員されていた中学校や女学校の生徒が数え切れないほど倒れていました。夜になると火炎に照らされて、日赤や貯金支局の外観が寒々と浮かび上がり、元安川のあちこちから『水をください』という声が続きました」。寺は「子安観音」を本尊とし、安産を祈願する人たちが参拝していた。
妻 靜子(36)
長女が庫裏玄関跡を掘り返し、母の手と妹祥代の指の骨を確認し、鉄かぶとに納める。
二女 釋枝(ときえ)(12)
県立第一高女(現・皆実高)1年▼爆心900メートルの小網町一帯の建物疎開作業に動員されて被爆し、佐伯郡五日市町(佐伯区)の救護所で6日夜死去。
三男 敏夫(4)
姉董子が遺骨代わりに、ブリキ製の電車の模型を納める。(注・遺影なし)
三女 祥代(5カ月)
母とともに爆死。(注・遺影なし)
木曽 春子(38)
真言宗慶藏院▼材木町1番地の庫裏で被爆し、安佐郡亀山村(安佐北区)の実家で14日死去▼子どもとの3人が死去。双三郡三良坂町に学童疎開していた小学6年の長男真隆は「一人生きてゆくのに精いっぱいで、寺の再興はかないませんでした。しかし、庫裏の間取りや境内は、まぶたにありありと焼き付いています」。室町時代の武将楠木正成らを祭った「楠公(なんこう)神社=写真=が境内になり、八重桜でも知られた。夫隆範が42年に病死した後、長男が住職を引き継いでいた。(注・遺影なし)
長女 達子(16)
女学院高女4年▼遺骨は不明。学徒報国隊として、東洋工業(現・マツダ)に動員されていた。
二男 由峯(5)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
鍋屋 國松(55)(左)
荒物店・指物師▼材木町84番地の自宅跡で、疎開していた西隣の阿部コナミらが遺骨を見つける▼応召中の息子2人を除き、家族4人が自宅で全滅。47年に中国から復員した五男正明は「1年早く戻っていた兄と一緒に自宅跡にバラックを建て、平和記念公園の建設が始まる49年まで住みました。父から仕込まれた指物仕事を継ぎ、孫になる私の息子が今は家具製造の工場を営んでいます」。
妻 イサヲ(50)(右)
自宅跡で遺骨を確認。
長女 孝子(26)(中)後ろ
夫が戦死したため、実家に戻っていた。
四女 歌子(8)(中)手前
中島小3年▼遺骨を確認。
生田 靜枝(44)
米穀「生田商店」▼自宅は材木町83番地。子どもと疎開していた安芸郡温品村(東区)から爆心約700メートルにあった十日市町(中区)の進藤産科婦人科へ向かい、遺骨は不明▼南観音町の旭兵器製作所に動員されていた広島一中(現・国泰寺高)4年の二男栄助は「店には住み込みの男性従業員が二人はいたと思います。うち一人は焼け跡で見つかったと聞いています」。材木町や中島本町、天神町などからなる中島地区で、米の配給所となっていた。(注・遺影なし)
畦田 善四郎(50)(右)
「丸善」酒店▼配給統制で材木町82番地の酒販店を42年に閉め、勤めていた50番地の井上商工作業所跡で遺骨が見つかる▼妻子との5人のうち4人が爆死。本土決戦に備え、4月に設けられた爆心1・7キロの第二総軍司令部に動員されていた女学院高女2年の長女安子は「自宅向かいの慶藏院境内に隣組で掘った防空ごうを8日朝、もしやと思いのぞきましたが、だれもいません。見知った人に出会えば、だれにでも駆け寄りたい震えるような気持ちになりました」。
妻 マサコ(42)(左)
遺骨は不明。長女は「6日朝も、縁側で予科練に志願した兄の写真を手にじっと見詰めていました」。
四女 桂子(7)(右)
中島小1年▼遺骨は不明。
五女 元子(5)(左)
遺骨は不明。
渡部 精一(60)
表具製造・販売「渡部披雲堂」▼材木町108番地の自宅で爆死したとみられる。遺骨は不明▼妻と弟家族の2世帯6人が全滅。(注・遺影なし)
妻 ソマ(60)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
弟の妻 照代(33)(右)
長女の散髪に二女を連れて98番地の廣本理髪店に向かったとみられる。15日死去。双三郡三良坂町へ学童疎開していた小学4年の長男公司は「防衛召集で佐伯郡地御前村(廿日市市)にいた父が、似島の救護所で母たちを見つけました。二女小夜子の死を知らず、『あの子はどうなったの』と繰り返し息を引き取ったそうです」。
照代の長女 哲子(ひろこ)(8)(左)
中島小1年▼逃げる途中に母とはぐれ、遺骨は不明。
照代の二男 剛夫(たかお)(5)
遺骨は不明。(注・遺影なし)
照代の二女 小夜子(3)
母と運ばれた似島で13日死去。(注・遺影なし)
松浦 民三郎(56)
質店▼東隣の天神町124番地の自宅が建物疎開となり、転居
した材木町の元・渋谷宅で爆死。弟の照雄が金歯により遺骨を確認▼妻と2人。
妻 ツ子(ね)(51)
爆死。
長女 大石 フミエ(年齢不明)
夫が応召となり、両親の元を訪ねて爆死。(遺影はいずれも98年12月15日付「天神町南組」編で掲載)
野村 敏子(23)
菓子店勤務▼木挽町37番地の自宅が建物強制疎開となり、転居した材木町内の借家で爆死▼長男と父との3人に加え、賀茂郡志和堀村(東広島市)の疎開先から戻った母、訪ねて来た姉とめいの計6人が死去。志和堀村にいた兄の妻澄江は「敏子さんの母は5日、生後間もない孫の世話に戻りました。家族が久しぶりに顔をそろえ、朝食をとっていたのでは。骨とも砂とも分からなくなったものを全員の遺骨として亡き夫とつぼに納めました」。(注・遺影なし)
長男 浩二(1)
母と爆死。(注・遺影なし)
父 広助(68)(左)
爆死。南隣の木挽町の自宅が建物疎開となり、妻や長男家族と志和堀村へいったん移った後、住み慣れた街に戻っていた。
母 ヱイ(58)(右)
爆死。孫の浩二をみるために三女宅を訪ねていた。
姉 鶴代(35)
県工業学校(現・県立工業高)勤務▼住み込みで働いていた千田
町の寮から妹宅を訪ね、爆死。(注・遺影なし)
鶴代の長女 陽子(5)
母とともに爆死。(注・遺影なし)
小早川 匡一(きょういち)(58)
クリーニング業▼遺骨は不明▼妻子との4人のうち3人が死去。
82歳になる二男陽三の子どもたちは「父は召集で外地にいたそうです。祖父母らがどこに住み、死んだのかは、これまで詳しく聞く機会がなく、今となってはよく分かりません」。
妻 静代(53)
遺骨は不明。
三女 春子(23)
旧住民の関係記録によると、安佐郡口田村(安佐北区)で13日死去。(注・いずれも遺影なし)
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