私にとっての原爆ドーム
原爆ドームはチェコ人建築家・ヤン・レツェル(Jan Letzel:1880~1925)の設計により広島県産業奨励館として1915年に完成した。当時の地方都市には見られない東ヨーロッパ風の美しい建物で、城下町の町屋や元安川ともよく調和し、広島市民の誇りであり郷愁でもあった。それが1945年8月6日、原爆の直撃により一瞬にして壊滅し、館内で執務していた職員は全員が即死、ドームと共に燃え尽きて確認する術はない。粉々になった遺骨は拾われることもなく土に還って久しい。産業奨励館としてわずか30年の命、ヒロシマの象徴「原爆ドーム」になる運命だったのか。私にとってドームは「原爆犠牲者の墓標」に見え、頂上の丸い鉄骨の残骸は「茨の冠」に映る。
被爆直後から、市内の川辺はどこも水を求める瀕死の被爆者で溢れた。しかし、その多くはその場で息絶えて川底に沈んだり、生きながら川下に流されていった。ここドームそばの河原に逃れた被爆者のうつろな目に入ったのは、爆風に崩れ、目の前で燃え上がるドームだった。まさに地獄のようなこの世の最後の光景だったに違いない。同じような体験をした私は、そんな“思い”から河原に降り、瀕死の被爆者の目線で撮影した。
先年、原爆ドーム内に入る機会があった。高熱でケロイド状に変質し割れた煉瓦(れんが)を踏みドーム直下に立つと、そこは外界の騒音はスーッと遠のき、静寂の不思議な異次元空間だった。瓦礫(がれき)の中には湯飲み茶碗や溶けて変形したガラス瓶のかけらも交じり、使っていた人の息遣いが間近に感じられて思わず立ちすくんだ。当時の時間が止まったままだった。
私はドーム内で撮影できる千載一遇の機会に気負い込んだ。しかし、中に入ると何故か心身が硬直し、わずかしか撮れなかった。悔いは残るが、私の人生終章の得難い体験だった。その後、この手記を書くまでこの時のことは周囲に話したことも、作品を発表したこともない。
細川 浩史
1928(昭和3)年広島市生まれ。被爆者〈爆心地から約1.4キロで被爆。当時17歳〉。爆心地付近で建物疎開作業をしていた最愛の妹を失う。
2000年4月から広島平和記念資料館でヒロシマ・ピース・ボランティア・ガイドを務め、05年4月から広島平和文化センターの被爆体験証言者に加わる。