平和への戦い強調

▽精力的に動き回る

フランスの哲学者・作家ジャン・ポール・サルトル氏とシモーヌ・ド・ボーボワール女史のヒロシマをみつめる眼は真剣そのものであった。昭和41年10月9日夜、広島に着いたサルトル氏らは「被爆地としての広島を特に取材したい」と観光のためのスケジュールやレセプションを一切断り、翌10日朝から、原爆ドームを振り出しに精力的にヒロシマを見、聞き、観察した。ドームから慰霊碑を通って原爆資料館へ。館内では動員学徒の遺品や焼け焦げたかわらの前にじっと立ち止まり、時には遺品に顔を当てるようにのぞき込む。無言ではあっても、まなざしは“ヒロシマの意味”を問い続けていた。

第2次大戦中の抗独運動、戦後は著書「実存主義はヒューマニズムなり」などによる実存主義の提唱、ハンガリー事件を契機として「スターリンの亡霊」批判、アルジェリア戦争における自国フランスの虐殺に対する告発、そしてこのころ米の介入でエスカレートし始めたベトナム戦争を痛烈に批判する-その延長上に同氏の広島取材はあったのであろう。

▽被爆者へ励ましも

昼食の間も、「原爆と人間」の話題が出た。来日にあたって、ヒロシマと原爆に関する多くの書物を読んできたというだけあって、原爆病院では重藤文夫院長に「白血病の発病率は下がっていくだろうか、神経系統にも影響があるといわれているが…」と問いかけた。ボーボワール女史も原爆とガンの関連について質問する。続いて広島市宇品町の「広島憩の家」を訪れ、被爆者20人とヒザを交えて話し合った。「被爆者間の連帯感は強いのだろうか。被爆者救援運動はどのように進められているか」(サルトル氏)「被爆による精神的打撃とどのように戦ってきたのでしょうか」(ボーボワール女史)。被爆当時の話、現在の状況、心境をトツトツと述べる被爆者の一語一語にじっと聞き入る2人。話し合いのあとサルトル氏は「皆さんの不幸はあなたたちだけのものでなく、外国にもあなたたちのことを考えている人がたくさんいることも忘れないでほしい」と励まし、「私たちも将来、悲劇が繰り返されることがないよう戦わねばならない。その意味では、皆さんの苦しみは平和の殉教者としての誇りに満ちた苦しみだと思う」と付け加えた。

▽連帯の大切さ痛感

原爆ドームの永久保存が難航していることを聞いて2人は、「日本に存在するただ一つのものであるこの廃虚は、あの殺りくが二度と決して起こらないために、みんなが生き、かつ戦うわれわれのあかしである」(サルトル氏)「あの戦争の恐怖の象徴であるこのドームは、われわれに、あらゆる力を傾けて平和のために戦う決意を迫る」(ボーボワール女史)と寄せ書きする。

2人の広島での印象は、「日本に来てから、広島で最も大きな感銘を受けた。原爆を受けた人たちが勇気を持って生活している態度に尊敬の念を覚えるとともに多くの人たちが、この平和のために苦しんでいる人たちとの連帯の気持ちを持ち続けるべきだと考えた」—。

(1975年7月22日夕刊)