中国新聞社

2001.8.10
松重 美人さん(88) 広島市安佐南区長束
(上) ファインダー涙で曇っとった

 写そうとしてファインダーをのぞいたら、けがをした人が、みんなこっちを見るでしょ、それで余計に撮りにくかった。でも、こういうような大惨事は広島では初めてだ。これだけのことが起きたのに一枚も撮らんのじゃ後々物笑いになる。そんな気持ちが強かった。

生き運があったけえ、原爆投下の日の写真を残せたんじゃと思う

 ●報道の使命感じた

 報道の職に就くもんとして後から「よう写しとらんのか」って言われるんはいやじゃった。ここで写真が撮れるのは、ほかにはおらん。そんな使命感もあった。それでも、二十分か三十分ぐらい(撮るのに)かかったかな。

 原爆投下から二時間余りたった午前十時半ごろ、京橋川の御幸橋西詰めの派出所周辺で被災者の写真を二枚撮影した。当時は、中国新聞写真部員だった

 (御幸橋で)二枚目を撮ろうとした時、ファインダーが曇っとった。怒りというより、アメリカのやつひどいことしやがったなあ。かわいそう、むごいなあと思うと涙が出た。

 派出所の方からも撮ろうとした。治療する様子や顔も見えた。あんまりむごいけえファインダーものぞけんかった。近づいたものの、どうしても撮れん。ばつが悪いけえだれとはなしに「ひどいことになりましたねー」と声をかけたんです。

 この後、翠町で理髪店を営んでいた自宅や周辺、罹(り)災証明書を書く警察官も撮影。被爆当日の貴重な写真は五枚になった

 撮っとって良かったと思う。これだけで、原爆の惨禍が全部分かるわけじゃあないけど、これでもないと、まったく分からん。新聞社のもんでも結局撮っとらん。

 市内には、営業写真家も何人かおったけど、みんなシャッターは切ってない。原爆投下の日の写真はこれだけ。新聞に携る者として、恥をかかんですんだ。使命は果たしたんじゃないか。

 現在は、妻と二人暮らし。腎(じん)臓の機能が弱り、人工透析のため週二回、通院している

 ●「生き運」があった

 もう、話しても良かろう。実は、四五年七月ごろ赤紙(召集令状)が来たが、「今さら一兵卒で使うより、うちで(報道班として)使った方がええじゃろう」と、司令部の中尉二人が、召集の撤回を決めてくれた。

 原爆の日も、運があった。夜中から広島城にある中国軍管区司令部におったが、朝、すぐ会社に上がるのは早いと思って朝飯を食べに翠町の家に帰った。今思えば生死の分かれ目じゃった。

 (朝食後)八時前に自転車で家を出た。御幸橋の手前まで来たが、便所に行きとうなって家に引き返した。もし、家に帰らんで社に向かっとったら、市役所の辺りまで行ったとき、原爆が落ちとったんじゃないか…。

 振り返ってみると、つくづく生き運があったとしか言いようがない。三回助かったけえ、あの日の写真を残すことにつながったんじゃと思う。

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