中国新聞社

2001.8.8
丹土美代子さん(69) 広島市中区基町
(上) 自分だけ生き残り申し訳ない

 私のクラスは五十人くらいいたのが、二、三人しか生き残っていない。だからクラスのみんなに対して、負い目があるし、みんなに会わす顔がないんよね。みんな苦しんで死んでいったんだから…。

特集記事で同級生の遺影を見たときは、涙が止まらなかった

 被爆当時、広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)の一年生。一年生は爆心地近くの建物疎開に動員され、全員が被爆死した。丹土さんは家の家具疎開で学校を欠席。舟入本町の自宅で大やけどを負ったが、一命は取り止めた

 ●欠席届託した友も

 あの朝、欠席届けを託した友だちも作業に行き亡くなりました。私は、父と弟、妹の三人が死んだから、疎開していた母と二歳の弟と一緒に廿日市市の親類の家に行った。母がつきっきりで看病してくれて、三カ月後にやけどは治ったけど、市女には退学届けを出しました。

 父が死んで、家計が大変なこともあった。でもやっぱり、自分だけが生き残ったことが重荷で…。どうしても「市女にまた行かせて」と言い出せんかった。元々、試験を受けて入学し、クラスの級長もしたんだから、市女で勉強したいという思いはあったのにね。

 廿日市市の国民学校高等科に編入学。卒業後、看護婦を経て国鉄職員になり、母と弟の一家三人の生活を支えた。被爆体験について沈黙していたが、二十年たったころ、組合運動を通じて名越操さん(八六年に死去)と出会い、証言活動を始める

 名越さんは、被爆二世の二男を白血病で失い、自分自身も体調が悪いのに、「被爆者を二度と出してはいけない」と証言に頑張っててね。名越さんの姿を見るうち、市女のことも「話さんといけん」と思うようになった。

 ●真実伝えるのが仕事

 同級生が建物疎開作業中に被爆死した平和大通りに、市女の犠牲者の名が刻まれた慰霊碑があるんです。子どもたちをその碑の前に連れて行き、話すようになった。身内のことを話すよりつらくて、涙が出てくるんです。

 自分だけが生き残って申し訳ないという気持ちは消えない。市女の場所に一人で行けないし、慰霊祭にも顔を出せない。ただ、亡くなった人たちのことを思い出しながら、あの時の事実を伝えていくことが仕事だと思っている。

 中国新聞社は昨年六月、市女の一年生の被爆死状況を調べ、二百十三人の遺影を特集記事に掲載した。あの朝、欠席届けを託した生徒の顔写真もあった。被爆体験を語る時、その新聞をかばんに入れ、子どもたちに見せるようになった

 特集記事を見た時は胸が詰まりそうで、涙が止まらなかった。「こんなにもいたのかあ」と思ってねえ。顔写真があれば、実感がわくでしょう。子どもたちにも、私の同級生がこんなにも死んだということを分かってほしいのよねえ。

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