中国新聞社

2001.8.3
安井 晃一さん(77) 札幌市北区
(下) 地方で暮らす厳しさ 想像以上
 

 「北海道に被爆者なんていねえべさ」っていう役場の職員はいるよ。北海道に限らず、地方で被爆者が暮らす厳しさは、広島の人が考える以上だ。差別や偏見は当然あったし、情報も入りづらい。僕は被爆者健康手帳を取る一九八四年まで、手帳のことはほとんど知らなかった。赴任先の学校は田舎だったからね。

ヒバクシャ会館の運営を、僕ら被爆者だけで続けていくのはもう無理だ

 五四年に中学校教諭になり、教え子に被爆体験を語り始めるようになる

 ●証言は僕らの責務

 子どもらが「広島のことを聞かせてくれ」ってせがむと、黒板に広島の地図を書きながら、授業時間を割いて少しずつ話した。本当に真剣に聞いてくれた。子どもから話を聞いてPTAが頼んできたこともあった。カンパを募って原水爆禁止世界大会に町の若者を派遣したりもした。

 北海道の被爆者は、男は兵隊、女性は開拓団で来た人が多い。こっちで、兵隊だった被爆者と話してみて、本当にひどい状況を見た人は意外と少ないんじゃないかなと思う。だから体験を話そうとしても難しい。被爆を隠すため、こっちに逃げてきた人もいたよ。

 証言しやすいようマニュアルを作ったこともあったけど、「やっぱり話せない」って人も多かった。忘れたい人に無理は言えん。

 現在、二百二十人の会員がいる北海道被爆者協会の常務理事。病身を押し証言活動を続ける

 事務局の四人で、証言依頼を受けてる。正直しんどい。証言で謝礼をもらうけど、協会じゃ自分のものにしない。五万円も出された時は多すぎるって断ったもん。だって話をするのは当然。僕らの責務なんだからね。

 「好きでやっている」って言う人がいるかもしれんが、遊びじゃない。国際的にも平和問題って本当に大事。八八年に米ニューヨークで開かれたSSDV(第三回国連軍縮特別総会)を支援するNGO(非政府組織)の会議に参加したり、八七年にスウェーデンに行って学生たちと交流したりして、そう実感した。

 ●会館管理を次代へ

 こつこつ頑張って、僕らのヒバクシャ会館は道内の小中学校の修学旅行コースにもなった。入場者も一万人は超した。

 百五十点以上の被爆資料を展示する北海道ノーモア・ヒバクシャ会館(札幌市)は九一年、完成した

 僕らで会館を管理してきたけど、もう限界にきている。被爆者がいなくなる前に、会館を引き継いでくれるところを探さなくては。年度内にも方針を決めなくちゃと思っている。

 高齢化が進み、被爆者は展望を見出せないでいる。あと五年じゃないかな、被爆者がある程度動けるのは。だから焦点を絞った運動をしなければならない。

 僕らはもっと誇りを持って、死ぬまで「ノーモア・ヒバクシャ」と訴えなければならない。その言葉を遺言状に書き込むぐらいのつもりでね。

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