中国新聞
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1   生家の跡 原爆の威力と悲惨さ刻む (02/07/26)
祈念館の入口に立つ中村さん(左)と吉原さん。「そばの元安川 で泳いだり、シラウオを捕ったりしました」。被爆前の話には笑顔を 浮かべた picture

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が、広島市中区の平和記念公 園に八月一日開館する。死没者の遺影や被爆者の手記を集めて公開 し、原爆の惨禍と核兵器の廃絶を訴えていく。一九四五年八月六 日、人間がつくり出した大量殺りく兵器の使用により、一人ひとり の身に何が起きたのか。続いているのか。ヒロシマの記憶を見つめ る。(西本雅実)

 「天神町北組の跡」と彫られた石碑が、祈念館のすぐ南側にあ る。三年前の着工に際して移された。南区宇品御幸に住む中村久夫 さん(80)は「これも旧住民らで建てたものです」と、そばに並ぶ犠 牲者芳名碑に向かって頭を垂れた。

 一九七三年建立の芳名碑には、ゆかりの二百七十三人が刻まれ る。中村さんの家族の名前もある。町全体が原爆の爆発直下から五 百メートル内にあった。

 暁部隊にいた中村さんは比治山本町(南区)で被爆した翌七日、 生家跡で、酒卸業の父泰さん(62)と母チヨさん(61)、二番目の兄久 人さん(35)の遺体を確認。建物疎開作業に出た長兄の久さん(37)も 亡くなっていた。

 「七日は地面はまだ熱く、立っているのがやっとでした…」。廿 日市市に住む吉原君枝さん(75)は、幼いころから知る中村さんの話 に促され重い口を開いた。生家は針の製造。十八歳の青木君枝さん は教えていた観音国民学校で被爆した後も、家族は「あれでも逃げ ている、どこかにいるはず」と言い聞かせて捜した。

 建物疎開に動員された広島一中(現・国泰寺高)一年の弟暉雄さ ん(13)の遺骨は十日、似島で手にした。ゲートルの名前が決め手だ った。父滝次郎さん(53)と母ハルさん(52)、姉喜代子さん(21)の三 人は、自宅跡を掘り返すと真っ白な骨となって見つかった。

 天神町北組跡にできた地下二階の祈念館は、四五年末までの原爆 死没者を十四万人と推計し、同じ数の陶板で被爆二カ月後に撮影さ れた廃虚の様子をパノラマで表す。高さ八メートル、直径一六・八 メートルの追悼空間を出ると、遺族から提供される遺影が大型映像 で公開される。

 中村さんは「国が犠牲者を忘れないという考えはありがたい」と 言う。念願がかなったとの思いがにじむ。平和記念公園となった旧 中島地区四カ町の住民からなる「爆心復元委員会」として七〇年、 五百六十七人の遺影を掲げ、公園内で合同法要を営んだ。一人ひと りの死を見つめ、受け止めることが、生き残った者の務めと思った からだ。

 吉原さんは「語り継がなくてはとも思いますけれど、忘れたい気 持ちがどうしても先にくる」。子や孫にも話す気になれないとい う。

 「忘れてはならない」「忘れたい」。相反するような言葉は、原 爆によるすさまじいまでの「威力」と「悲惨さ」を表す。ヒロシマ の記憶はそこから始まり、続く。

 二人は、祈念館に遺影を提供した。父、母、きょうだいが生きて いた証しとして。(死没者の年齢はいずれも当時)

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