中国新聞
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第三部 韓国編
 1 貧困の連鎖
 治療より生活心配 子も苦悩 すがる援助


2002/07/22

 終戦までの三十五年間、朝鮮半島は日本の植民地だった。多くの 人が職を求めて日本に渡り、あるいは徴用工として強制連行され、 ピカに遭った。今、韓国で確認されている被爆者は約二千二百人。 在外被爆者が最も多い隣国を訪ねた。(荒木紀貴)

 「生活が苦しい。助けてもらえないだろうか」

 韓国南部の農村地帯、慶尚南道陝川郡に暮らす朴奎黙さん(84)は 六月初め、韓国原爆被害者協会陝川支部を訪れ、支部長に訴えた。 しかし、「今は資金の余裕がない。待ってほしい」と慰められるだ けだった。

 ▼活路求め43年来日

 原爆の熱線で、全身を焼かれた。ケロイドで覆われた左腕は、い まだにまっすぐ伸ばせない。やけどのあとは顔から足先までに及 ぶ。「夏になるとかゆくてつらい。ウミも出てくる」。膨れ上がっ た傷跡を無念そうに見つめた。

 広島に渡ったのは二十代半ばの一九四三年。結婚し陝川で農業を していたが、生活は厳しく、妻を残して新天地に活路を求めた。広 島駅北の二葉山のふもとに暮らし、建設現場で働いた。

 朝。防空ごうを掘る作業に駆り出されていた。「落ちてきたぞ 」。同僚の叫び声で空を見上げた。落下傘が見えた瞬間、ピカッと 光り、意識を失った。

 近くの収容所に運ばれた。廿日市市の叔父が来てくれたが、医者 も薬も足りない。全身のやけどは、サツマイモの汁をつけても、い つまでも痛みは引かなかった。

 数カ月後、汽車と船を乗り継ぎ韓国に戻った。足と手は引きつ り、家を出られない。着の身着のままの帰国だったから、医者に行 く金はない。「夢も希望もなかった」。妻がわずかの田と畑を耕し て生計を支えた。

 三男三女を授かった。小学校に行かせるのがやっとだった。子ど もたちは卒業すると就職先を探した。何とか釜山市の鉄工所などに 勤めた。危険な作業を強いられ、二男は指先を、三男は腕を労災事 故で失った。

 貧困は、子の世代にも連鎖するものなのか。親は、悲しく、切な い。

 ▼広島2万5000人以上

 韓国併合後、朝鮮総督府は土地調査を進めた。書類の不備や未申 告などで、多くの農家が土地を失い、小作農になった。生活の苦し さに耐えかねた人たちは職を求め日本へ。軍需工場があった広島、 長崎で、朝鮮・韓国人が被爆した。「広島・長崎の原爆災害」(一 九七九年)によると、広島で二万五千―二万八千人、長崎市で一万 千五百―一万二千人。その多くの人は、帰国できても、財産は灰に していた。

 「少しでも援助を受けられないか」。そんな一心で朴さんは、六 八年に設立された被害者協会に入った。八〇年代、日韓政府が始め た渡日治療で、広島を再訪した。が、左腕のケロイドの除去手術は 決心がつかなかった。痛みを味わうのは、もうこりごりだった。

 今、妻と二人で暮らす。成人した子が六人いるため、生活保護の 対象にならない。子どもたちの仕送りに期待もできない。年金もな い。

 九三年までに日本政府が韓国側に支出した四十億円で、毎月約一 万円の手当が支給される。頼りはそれだけ。「年を取った。もう治 療はいい。生活だけが心配」。言葉少なに訴えた。

在外被爆者 願いは海を超えて



左腕全体にケロイドが残る朴さん(右)。いまだに腕をまっすぐ伸ば せない

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