中国新聞
在外被爆者 願いは生みを超えて
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2002/08/08
 
アンケート 韓国
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韓国で唯一の被爆者養護施設である陝川原爆被害者福祉会館。日本が拠出した40億円を基に建てられ、約80人の被爆者が暮らす(慶尚南道陝川郡)
《記事の読み方》在外被爆者の名前(年齢)▽現住所▽被爆状況▽「どういう手助けや情報が必要と思いますか」との設問への回答―の順。米国の現住所で州名がないのはカリフォルニア州。被爆地の地名は当時の表記による。入市被爆の日付は8月。  
《調査方法》アンケートは、協力が得られた被爆者を対象に、記者が現地を訪れた韓国、米国、ブラジル、パラグアイでは本人の直接記入、または記者による聞き取りで回答を集めた。アルゼンチン、カナダ、中国の3カ国は郵送などで回収した。
なぜ差別 日本人と同じ待遇を

下蓮玉さん(66)=韓国・ソウル市 (写真右)

手帳無効になる悔しさ

 一九七五年に来日し、在外被爆者としては三番目に被爆者健康手帳を取った。二十七年の月日が過ぎた今も、国境を越えると手帳が無効になる悔しさが身に染みる。

 広島市草津本町(西区)で被爆。韓国に帰国後、二十代で全身に斑点ができる血液病になった、という。転機は七三年。訪韓中の大牟田市原爆被害者の会(福岡県)の会員に出会い、斑点を見せた。「卞さんを救おう」と大牟田市で市民運動が生まれ、長崎市の病院に招かれた。

 治療を受け、念願の被爆者健康手帳も交付された。しかし、長崎市の職員から「韓国に戻ると手帳は無効になります」と通告された。「悔しくて悲しかった。でも来日さえできない他の韓国人被爆者のことを考えると何も言えなかった」

 その後、日韓両政府や民間レベルで渡日治療が制度化され、日本で治療を受けるチャンスは広がった。自身の病気も日本で完治した。が一方で、韓国に戻ると手帳はやはり無効になる。「日本の医者や支援者が親切にしてくれたし、恨む気はない。日本人として被爆したわれわれにも被爆者援護法を適用してほしいだけです」。日本を懐かしみながら淡々と話す。

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柳永秀(69)=慶尚南道陝川郡▽広島市己斐で市内電車の乗車待ち  母は被爆から二カ月後に、兄は韓国に戻り数年後に亡くなった。悲しみは今も消えない。当時は「柳(やなぎ)」という名字で日本人として育った。日本の被爆者と扱いが違うのはおかしいと思う。同等の扱いをしてほしい。
周允徳(78)=慶尚南道陝川郡▽広島市横川町二丁目の家で二人の子と  韓国に戻った後、金も土地もなく苦労した。目まいで体がフラフラし、体調が悪かったので余計に大変だった。約十年前、韓国原爆被害者協会で被爆者健康手帳の取得を勧められたが、証人が見つからず、申請をあきらめた。手帳があれば、日本に行って治療を受けることができるから、欲しいけど、五十七年たった今、証人は見つけるのはとても無理でしょう。
相石(73)=釜山市▽広島県安佐郡古市町から母を捜して入市  (在外被爆者への被爆者援護法適用を認めた)昨年の大阪、長崎両地裁判決の通り、日本人と同等の待遇にしてほしい。現在の日本政府のように、控訴、上告と裁判に時間をかけていくと、被爆者は次々に亡くなる。そうした対応が、非常に非人道的な措置であることを自覚するべきだ。
朴永達(86)=慶尚南道陝川郡▽仕事先の大竹市から家族を捜して入市  家も畑もなく、食べていくのに苦労した。被爆者健康手帳を取ろうと考えた時期があったが、年月がたち証人が見つからない。何とかならないだろうか。
学連(78)=慶尚南道陝川郡▽広島市江波町の自宅で洗濯中  よく心臓のどうきがしたり、息が詰まったりし、被爆の影響を心配して生きてきたが、年を取り、あまり欲はない。地球の一家族として日本も韓国も仲良くしていければいいと思う。
康相珠(75)=釜山市▽広島市千田町三丁目の工場で作業中  差別することなく、日本の被爆者並みの待遇にしてほしい。われわれは当時、日本のために働いた者です。
宋任復(69)=慶尚南道陝川郡▽広島市福島町の自宅二階 差別を恐れて被爆の事実は隠していたが、あんまり体調が悪いので五十三歳で韓国原爆被害者協会に入った。おかげで渡日治療に行くことができた。三人の兄弟は入市被爆したが、被爆者に該当するとは知らず、被爆者健康手帳を持っていない。韓国では原爆の情報は少ないから。
百斗伊(75)=慶尚南道陝川郡▽広島市上天満町の自宅  原爆で母が大やけどをし十日後に亡くなった。われわれも同じ被爆者です。毎年、友人の被爆者が次々に死んでいきます。一日も早く日本人と同じ補償をお願いします。
姜正守(85)=釜山市▽広島市松川町の家で妻子と食事中に  韓国に戻り、生活に苦労したが、戦争に負けた日本に援護を求める気はなかった。日本の学校で習ったように「人様に迷惑をかけないように生きよう」と考えてきた。ただ、年を取り体のあちこちが痛むので、昨年、被爆者健康手帳を取った。「そろそろ助けを求めてもいいかな」と思った。日本で被爆したのだから、日本の被爆者と同じ待遇にしてほしい。
洪性文(75)=馬山市▽広島市西観音町一丁目の工場内  韓国の医療レベルは高くなっているので、国内で治療が十分受けられるように資金を送ってほしい。もう一つの願いは、被爆者健康手帳を簡単に取れるようにしてほしい。今は日本に行って申請すると、交付されるまでに五日はかかる。一日で手帳を出すようにできないものか。
姜今順(65)=馬山市▽広島市福島町の自宅  高血圧と糖尿病に加え、じん臓もよくない。日本で精密検査を受けたいが、これまでは被爆者健康手帳を取りたくても、渡航費がなく日本に行けなかった。やっと今春に交付を仮申請した。ただ、渡航費を出してくれる日本政府の支援事業を使うつもりはない。韓国原爆被害者協会が賛成していないから。知人に借金して日本に行く。
朴福順(80)=馬山市▽広島市観音の自宅そばの防空ごう  韓国に帰った後、数年の間に夫も六歳の長男も亡くなった。農業で何とか暮らしてきたが、今はつえなしでは歩けないほど体が弱くなった。支援してほしい。
李廣善(67)=ソウル▽広島市己斐の己斐駅近くで遊んでいて  被爆者は高齢化が進み、日本に行き医療を受けるのは現実には難しい。それぞれの国で医療を十分に受けられるように医療基金を出してほしい。韓国では九三年までに日本政府が拠出した四十億円の基金を原資に、医療費補助や手当支給に使ってきたが、二年後には枯渇する。被爆者のために追加拠出してほしい。
李根睦(80)=平沢市▽広島市南観音町の三菱機械製作所に強制連行されて  未払い賃金の支払いを求める裁判の原告団に加わったが、一審は敗訴し、高裁で審理が続いている。こんなに裁判が長くかかるとは思わなかった。韓国の被爆者も、日本の被爆者援護法で同等の待遇にしてほしい。
姜建馨(79)=平沢市▽広島市南観音町の三菱機械製作所の工場に行く途中  今も日本政府に対する怒りは消えない。日本政府は、一九六五年の韓日基本条約で戦後補償は解決したと言うが、われわれ被爆者には補償金は渡っていないことを知ってほしい。被爆者援護法で、日本人被爆者と同等の待遇をするべきだと思う。
              
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