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似島 |
墓標の地 掘り起こす記憶
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広島市の沖合約四キロ、広島湾に浮かぶ似島(南区)は、戦時中の兵隊たちにとって「日本の玄関口」だった。旧陸軍の検疫所が設けられ、戦地からの帰還兵が最初に踏む地だったからだ。その島に被爆直後、一万人ともされる負傷者が運び込まれた。島は、そのまま息絶えた犠牲者を埋葬した「墓標」ともなった。 島で生まれ育った大下常夫さん(76)。あの日、市中心部での建物疎開で出た荷物を船で運び出す作業中、爆心地から南西約一・七キロの観音本町(西区)にいた。閃光(せんこう)の瞬間、右半身が激しい熱を帯びた。意識が戻った時には川の中にいた。爆音を聞いた覚えはない。だから大下さんの原爆の記憶は、「ピカドン」ではなく「ピカ」。 仲間たちと似島へ逃げ延び、臨時野戦病院となった第二検疫所に運ばれた。屋内はハエが飛び回り、四、五日もしたら腐敗臭が漂った。男とも女とも判別できないうめき声はやがて消え、隣人は床に敷いたむしろに染みを残して、次々と入れ替わった。耳に響いたのは、家族を捜す人たちの懸命な問い掛けと落胆の声…。 この夏、第二検疫所跡地の少し南側にある馬匹検疫所跡地から、原爆死没者八十五人分の遺骨が出た。学生服のボタンや名札などの遺品もあった。あの日のうめき声の主だったかもしれない。「つらくて見とうないんじゃ…」。大下さんのしゃがれた声が、すっとすぼむ。同じ島内に今も住みながら、これまで発掘現場に行ったことはなかった。 広島女学院大(東区)の学生たちは、遺骨の発掘を機に島での学習会を繰り返した。軍都だった広島の歴史と重なる島内の軍関連施設を巡った。「原爆後の様子も知りたい」。久保絵美さん(21)と高松由紀さん(22)平尾愛さん(20)の三人は、今回もフェリーで島へ向かい、大下さんを訪ねた。 学生三人の熱意に促されるかのように、大下さんは五十九年前にうなされたあの場所へ、遺骨が見つかった地へと、足を運んだ。「あの世まで持って行く」つもりだった記憶を語り始めた。 |
【写真説明】第二検疫所跡地前で、大下さん(右端)の証言を聞く左から平尾さん、高松さん、久保さん |