あの日


癒えぬ痛み「後がない」

被爆者から
原広司(はら・ひろし)さん(73)
 広島県立工業学校(現県立広島工高)1年生。前日に水主町(現中区加古町)の建物疎開作業に動員され、あの日は代休で親類宅のある江田島にいた。その日のうちに、学校に集まろうと宇品港(南区)から市に入った。
 1985年ごろから核被害の象徴として原爆ドームの絵を描いている。そばの元安川の水で絵の具を溶く。昨年10月、通算1500枚を超えた。
 元国鉄勤務。3年前に大腸がんを切除した。「残りの人生をかけドームを描き続ける」。被爆証言の会代表。安芸区。
寺前妙子(てらまえ・たえこ)さん (74)
 進徳高等女学校(現進徳女子高)3年生。電話交換業務に動員され、爆心地から550メートルの下中町(現中区袋町)にあった広島中央電話局の2階廊下にいた。至近距離のため、屋上にいた班は一瞬で消えたという。
 顔を傷つけ左目を失った。窓から飛び降り、担任の教師に手を引かれて鶴見橋(中区)のたもとから川に飛び込んで命をつないだ。
 体験を語り継ぐことが、8月30日に死亡した担任への「恩返し」。広島県動員学徒等犠牲者の会理事。安佐南区。
坪井直(つぼい・すなお)さん (79)
 広島工業専門学校(現広島大工学部)への登校中、爆心地から約1.2キロの富士見町(中区)で被爆した。逃げる途中、御幸橋(南区)に座り込んだ姿を、元中国新聞カメラマンの松重美人さんが撮影している。地面に石で「坪井はここに死す」と書いた。
 被爆の6日後から約40日間、意識がない。現在も、がんや慢性再生不良貧血症などに苦しめられている。
 元教員で広島県被団協理事長、日本被団協代表委員。2003年暮れ、原爆投下機エノラ・ゲイの一般公開に抗議するため訪米した。西区。
若者へ
大下あすか(おおした・あすか)さん(29)
 広島市立竹屋小の教員。原爆・平和問題に関心はあるが、被爆者の体験を聞く機会が減ってきた。中区。
久保美幸(くぼ・みゆき)さん (20)
 美作大3年生。被爆50周年の広島市平和記念式典で、初代こども代表として「平和への誓い」を読み上げた。津山市。
石田一裕(いしだ・かずひろ)さん (16)
 広島城北高1年生。社会問題研究部部長。「原爆の絵」の作者から被爆体験を聞き取っている。南区。



 
 惨状を今に伝える原爆ドーム(広島市中区)を前に、被爆者三人の記憶が生々しくよみがえる。その「伝言」を聞き漏らすまいと、若者三人が耳を澄ませる。

 ドームの写生を続ける原広司さん(73)、証言活動を重ねる寺前妙子さん(74)、被爆者団体の世話役を務める坪井直さん(79)。心も体も傷つけられた「あの日」の痛みは癒えない。

 小学校教諭の大下あすかさん(29)、大学三年の久保美幸さん(20)、高校一年の石田一裕さん(16)。大なり小なり平和の問題にかかわってきた。自分の言葉で「ヒロシマ」を伝えることが、いかに難しいかを肌で感じてきた。

 「わしらには後がないんじゃけえ、もう切羽詰まっとる」。被爆者から悲鳴に似た声がこぼれる。六十年前を境に一変した人生に、若者たちは圧倒された。沈黙し涙した。「もっと聞き、伝えたい」。決意も漏れた。

 冬の木漏れ日が差す平和記念公園を六人は歩いた。老いた被爆者と若者と、人影が寄り添う。約五時間の対話が続いた。




【写真説明】
被爆60周年―。原爆ドームを背に被爆体験を語る左から坪井さん、寺前さん、原さん。耳を傾ける、中央から久保さん、石田さん、大下さん



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