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建物疎開 |
道路一本挟み生き残る
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道の向こう側で作業をしていた級友たちは、ほとんどが犠牲になった。こちら側にいた自分は生き延びた。竹村伸生さん(72)=広島県大野町=たち旧制崇徳中(現崇徳中・高校)の一年生は八丁堀地区(広島市中区)で、建物疎開に動員されていた。 空襲に遭っても火災が広がらないよう、家屋を壊して防火帯を設けるのが建物疎開作業だ。竹村さんは前日の作業で鉄くぎを踏み、あの日は荷物の番をしていた。道路を挟んだ向かい側で級友たちは、黙々と木ぎれを集め始めた。 作業開始わずか数分後に閃光(せんこう)、そしてドンの音。体が浮いたことは覚えている。気が付くと辺りは真っ暗だった。 目の前に四人が近づいてきた。やけどした顔から皮膚が垂れ下がる。「竹村よ、お前はやけどが軽いのう」。一人が語り掛けてきた。声でやっと同級生だと分かった。自分はトラックの陰になったらしい。それでも顔や腕の右側は熱線を浴びた。 火の手を避け、逃げ惑った。黒い雨に打たれて湯気を出す山陽線の鉄橋をはって渡った。黄色い胃液が出るまで何度も吐いた。拾った柱をつえ代わりにし、祇園町(安佐南区)の自宅にようやくたどりついた。 爆心地から一キロ前後の八丁堀地区で作業をしていた崇徳中一、二年生と教師のうち、原爆の犠牲者は四百十一人を数える。生き延びたのはわずか五人。生き残った者の務めとして竹村さんは、三年生以上を含めれば五百十人とされる母校の動員学徒犠牲者の生きざま、死にざまをたどる作業をこつこつと続ける。 広島学院高一年の中島慶人さん(16)=安芸区=と県立広島商高一年の藤原かすみさん(15)=中区=を竹村さんは八丁堀に案内した。二人は、原爆資料館(中区)が中・高校生を対象に実施している平和講座「ピースクラブ」のメンバーだ。 六十年前、自分たちより二―三歳年下の少年たちがここにいた。汗だくになり、不平もこぼさずに働き、そして原爆の熱線を浴び、亡くなった。二人は炎天下の作業に思いをはせた。自分たちの「いま」を考えた。 |
【写真説明】地図を広げて建物疎開の様子を語る竹村さん(左)。中島さん(右)と藤原さんは熱心に質問を重ねた(撮影・今田豊) |