ああアメリカ


心の傷抱え 海を渡った

被爆者から
武谷田鶴子(たけや・たづこ)さん(76)

爆心地から約1.5キロの千田町(中区)で被爆し、1955年から1年間、やけどの手術のため渡米した。被爆体験や平和への願いを記した作品を数多く執筆してきた。
若者へ
アナ・ペレズさん(25)
山本奈美(やまもと・なみ)さん(23)


ペレズさんは広島市教委の英語指導助手として2003年夏に来日。母の祖国日本に幼いころから関心があった。山本さんは広島大総合科学部3年生。04年11月に同大であった平和シンポジウムで実行委員を務めた。



 
 原爆投下の十年後、当時は軍民共用だった岩国市の岩国空港(現米海兵隊岩国基地)から、米軍のプロペラ機が飛び立った。機内には、やけどの手術のため米ニューヨークに向かう十六―三十一歳の女性被爆者二十五人。かの地のマスコミは彼女たちを「ヒロシマ・ガールズ」と報じた。

 武谷田鶴子さん(76)=広島市東区=もその一人。広島女子高等師範学校付属山中高等女学校(現広島大付属福山中・高校)四年生だったあの日、千田町(中区)にあった魚市場近くを歩いていて、熱線に半身を焼かれた。

 顔や腕に刻まれたやけどのあとに、周囲の視線は容赦なかった。十六歳の少女は「かえって目立つ」と自身に言い聞かせながらも、包帯で隠さずにいられなかった。命を絶とうと思い詰めた時期もあった。信仰を心のよりどころにした。渡米治療を提唱した故谷本清牧師と、広島流川教会(中区)で出会った。

 原爆を落とした米国を最初は恨んだ。だが、無償の治療とそれを支えた米国市民の励ましに触れ、生きようと思い始める。その半生を武谷さんは二年前、「記憶の断片」と題して著書にまとめた。思い出す限り、ありのままに、心模様を描いた。

 二〇〇一年九月の米中枢同時テロ。思い出の地ニューヨークに、もう一つの「グラウンド・ゼロ」(爆心地)が生まれた。執筆のきっかけとなった出来事は、平和を訴える決意も呼び起こした。直接、誰かに語り伝えたいとも思った。

 二人の若者が、そんな武谷さんの人生に関心を寄せた。広島市教委英語指導助手のアナ・ペレズさん(25)はニューヨーク出身。日本人の母の教えで、和の文化に慣れ親しんできた。広島大(東広島市)三年の山本奈美さん(23)は岩国市出身。半世紀前に武谷さんが飛び立った地で、平和学習を重ねてきた。

 自宅を訪れた二人に、武谷さんは自著を手渡した。薄れがちな記憶を、本を頼りにひもといた。二人は、心ごと身を焼かれた痛みと悲しみに、思いをはせた。



【写真説明】
体だけでなく心にも負った60年前の痛みを、武谷さん(左)から聞き取るペレズさん(中)と山本さん(撮影・今田豊)



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