海峡に揺れて


38年後に得た被爆者手帳

被爆者から
沈載烈(シムチョエル)さん(78)

 被爆した広島市皆実町(南区)は爆心地から2.5キロ。直後はトラックで負傷者を運んだ。朝鮮戦争でライフルを握った経験もある。昨年末から渡日治療で広島県西部の病院に入院している。
若者へ
藤井真梨(ふじい・まり)さん(18)
岩本理沙(いわもと・りさ)さん(18)


 2人とも広島で平和学習を受けたが、被爆体験をじっくり聞くのは初めてという。藤井さんは祖父母が被爆者だ。2人とも推薦入試で大学への進学を既に決めた。



 
 戦争がなければ、ずっと広島に住みたかった。戦後に韓国へ帰ると、周囲は「原爆は祖国を解放した」と言う。在韓被爆者への援護が日本並みに近づいたのは、つい最近のこと。原爆に傷つけられた背中が、今も痛む。

 釜山市に住む沈載烈さん(78)。日本に来た年を「昭和七年」と元号で言う。韓国を日本が植民地にしていた時代。六歳だった。広島で教育を受け、やがて軍国少年に育った。

 あの日、皆実町(広島市南区)の運送会社にいた。トラックのタイヤをけって運行前のパンク点検をしている最中、爆風で落ちた倉庫の屋根の木片が、脊髄(せきずい)を直撃した。

 軍の命令を受け、八月六、七両日は、市中あちこちの死傷者を荷台に乗せ、宇品(南区)の陸軍運輸部に何度も運んだという。嘔吐(おうと)に襲われた。韓国に帰ったのは、その年の暮れ。

 一九八三年、広島の地を踏む。日韓両政府が在韓被爆者の渡日治療を始めていたからだ。あの時の嘔吐は、被爆の急性症状ではないかと初めて知った。手にした被爆者健康手帳はしかし、再び海峡を越えて韓国に戻ると、紙切れ同然だった。

 その後も広島に来るたび、日本政府や広島県に「日本の被爆者と同じ待遇に」とかけ合った。あの日、自分たちは「日本人」だったではないか―。どこにいても被爆者は被爆者ではないのか―。同じ境遇の同胞たちの憤りをぶつけた。

 昨年末から再び、渡日治療で「第二の古里」に来た。韓国の女子校と交流している西区のノートルダム清心高三年の藤井真梨さん(18)=広島県府中町=と、同級生の岩本理沙さん(18)=南区=が沈さんのことを知った。

 沈さんは二人を、平和記念公園(中区)にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑に案内した。よわいを重ねた今は、照れた顔をして、「きりがないから」と戦後の苦労話にはあまり触れたがらない。二人は、沈さんが行き来した海峡を思った。質問を重ねた。



【写真説明】
韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で、沈さん(中)の話を聞く藤井さん(左)と岩本さん(撮影・今田豊)



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