|
絵筆の思い |
「世界の人よ 考えてくれ」
|
閃光(せんこう)が降り注ぎ、軍服姿の男性が石垣の陰に倒れ込む。広島市安佐北区の高原良雄さん(93)は三十一年前、自身の姿を「原爆の絵」に描いた。 幼いころから絵は好きだった。二十歳から四年間、文化勲章を受けた洋画家、岡田三郎助(一八六九―一九三九年)に師事した。手先の器用さを買われ、陸軍では衛生兵に。基町(中区)にあった広島第二陸軍病院から出た直後だった。爆心地から約七百メートル。至近距離だが、石垣が熱線や爆風を弱めてくれた。 がれきには無数の遺体が埋まり、川べりの雁木(がんぎ)には鮮血に染まる人々がひしめく。もだえ苦しむ人々の顔が脳裏に焼き付き、戦後三年間は絵筆を握ることができなかったという。 一九七四年、体験と惨状を十七枚の絵に描き、原爆資料館(中区)に寄贈した。絵だけでは表現しきれないむごたらしさは、文字で補った。最後の十七枚目をこう締めくくっている。「世界の人よ 今一度考へて呉(く)れ」―。 それから三十年を経た昨年夏以来、広島城北高(東区)社会問題研究部は「原爆の絵」の作者を訪ね、画用紙やキャンバスに込めた思いに耳を傾ける活動を始めた。時間を超えて「あの日」を再現する絵に、体験をストレートに伝える訴求力を感じるからだ。 部長の一年石田一裕さん(16)と部員の二年山本宏樹さん(17)、一年田原健司さん(16)は「爆心地から一キロ圏内で被爆した人の話を聞きたい」と思った。より惨状に近づこうとする熱意が、安佐北区内の特別養護老人ホームで暮らす高原さんとめぐり会わせた。 第二陸軍病院のあった辺りは現在、基町アパート群。その本川べりで、あるいは絵が保管されている資料館で約四時間、四人は語り合った。真剣な表情の三人に囲まれ、車いすの高原さんは「死ぬまで描き続ける」と覚悟を語った。 |
【写真説明】原爆資料館で高原さん(左から2人目)は31年前に描いた「原爆の絵」を広げた。じっと体験を聞く左から山本さん、石田さん、田原さん(撮影・福井宏史) |