出発のうた


「生き延びた意味 奏でて」

被爆者から
梶山雅子(かじやま・まさこ)さん(72)

  被爆した金屋町(南区)は爆心地から約1.6キロ。翌年、学校新聞に級友の死を詠んだ短歌を掲載して以来、原爆を題材に歌の創作を続ける。2冊目の歌集「いしぶみの賦」を今月出した。
若者へ
岡部寛(おかべ・かん)さん(23)
舞子(まいこ)さん(18)

 2000年にデュオ「本家熊野屋」を結成した。曲作りは主に兄の寛さんが手掛け、ピアノやギターを弾き語りする。ボーカル担当の妹の舞子さんは今月、高校を卒業し活動を本格化させた。




 呉市の梶山雅子さん(72)は、原爆を生き残ったつらさを後日、短歌に詠んだ。

 「全滅のクラスと聞いておりました」怒りを秘むる亡友の母の瞳

 六十年前、広島県立広島第一高等女学校(第一県女)の一年生だった。級友たち二百二十人余りは、建物疎開先の土橋(広島市中区)辺りで炎に包まれた。爆心地から約七百メートル。逃げ延びた一部の少女たちも、みな息絶えたという。今は平和大通りとなった中区中町の学校跡に、犠牲者の名を刻む慰霊碑が立つ。

 その碑前で梶山さんが証言活動を始めたのは十年前からだ。それまでは、できなかった。

 あの日、一カ月前に切った盲腸の傷がうずき、術後の衰弱で金屋町(南区)の自宅で休んでいた。命を拾った安堵(あんど)はつかの間。生き残った級友は自分を含め作業を休んだ四、五人だけだった。

 その負い目を、級友たちの三十三回忌に、あらためて思い知らされた。それまでも学校の碑には、日が沈むのを待って出向いていた。節目の年だからと碑前の慰霊式に初めて参列すると「県女は全滅と聞いた」「うちの子は熱があったのに、お国のためにと(作業に)出た。なのにあなたは…」。老いた遺族の言葉が胸に刺さった。

 結婚し長男を授かっていたから、子を思う親の心は痛いほど分かる。二男を早産で亡くしたから、子を失う悲しみも身に染みている。

 五十回忌。今度は遺族たちの許しを得たように感じた。今月、二冊目の歌集を編んだ。「気持ちの整理はついた」。しかし、行方不明の級友がわずかな消息を残した元安川の水面は、いまも直視できないでいる。

 広島県熊野町の岡部寛さん(23)と妹の舞子さん(18)でつくるデュオ「本家熊野屋」。被爆三世の二人は、元安川べりでの平和コンサートに出演した経験もある。だが、持ち歌に反戦ソングはない。何度も原爆の歌を作ろうと試みた。が、惨状を表現しきれない。

 兄妹は梶山さんを学校の慰霊碑や元安川へと誘った。ギターを弾いた。被爆の記憶を求める二人に、梶山さんは自作の歌を提供すると申し出た。これにメロディーをつけてほしい。生き延びた意味を、奏でてほしいと。




【写真説明】
】第一県女の死没者名を刻む碑前で、寛さん(左)と舞子さん(中)に自作の歌を詠む梶山さん(撮影・荒木肇)



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