素顔の12歳


快活に映った病室のサダコ

被爆者から
大倉記代(おおくら・きよ)さん(64)

 爆心地から約3.3キロの南観音町(西区)にあった自宅で被爆した。肺浸潤を患い、1955年6月から3カ月間、禎子さんと同じ病室で過ごし、2人で鶴を折った。
若者へ
河野宏美(こうの・ひろみ)さん(21)
竹内有紀(たけうち・ゆうき)さん(20)

 河野さんは安田女子大(安佐南区)文学部3年。一昨年の米国留学で原爆投下に肯定的な風潮に違和感を覚えた。竹内さんは広島大(東広島市)教育学部2年。卒論のテーマに「平和教育」を考えている。




 「折り鶴の少女サダコ」の名は世界中に知れ渡る。佐々木禎子さん。一九五五年十月二十五日、亜急性骨髄性白血病のため、十二年十カ月余の生涯を閉じた。

 二歳で爆心地から約一・六キロ、楠木町(広島市西区)の自宅で被爆し、「黒い雨」に打たれた。快活な少女は小学校六年で病に伏し、中学校には通えなかった。サダコの物語はしばしば、「回復を信じて鶴を折り続け、千羽に届く直前に途切れた」と伝える。


 それから半世紀。遺族や友人たちが、偶像でも伝説でもないサダコを伝えようと動きだしている。普通に生きた少女の姿こそが、無差別に命を奪う原爆の残虐性を浮かび上がらせる。サダコの素顔と揺れる心に触れた率直な思いを聞いてほしいと。

 広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院=中区)で約三カ月間、同じ病室だった大倉記代さん(64)=東京都西東京市。昨年六月に初めて、地元の中学生に入院中の思い出を語った。

 「禎子ちゃんはすばしっこくて。院内を無邪気に駆け回っていた」。若い医師や別病棟の患者とも親しく、病室でおとなしくしていることはほとんどなかった。二歳年上の大倉さんをまね、読書や文通もたしなんだ。

 仲良しの幼い子が白血病で死んだ七月四日、二人で肩を抱き合い泣いた。八月六日、病室で覚えたての「原爆を許すまじ」を口ずさんだ。包装紙を集め、競って鶴を折った。「お互い千羽を超えたね」と言い合った。

 大倉さんが退院して二カ月後、禎子さんは永遠の眠りについた。五、六日後に送られて来た新聞記事で知った大倉さんは「悩みや不安を感じてあげられなかった」と今も、自責の念にかられる。

 安田女子大三年の河野宏美さん(21)と広島大二年の竹内有紀さん(20)はともに広島出身だ。「心の強い少女」と、物語で覚えたサダコの印象を語る。被爆地広島を再訪した大倉さんと、平和記念公園(中区)で待ち合わせた。

 「禎子ちゃんは思春期の入り口にいた。あなたたちにも分かるはず」。サダコの死を機に建立された原爆の子の像、遺品が並ぶ原爆資料館。公園内をめぐりながら、大倉さんが二人に語る。泣きも笑いも、迷いもした十二歳の素顔を、ありのままに。



【写真説明】
原爆の子の像前で、河野さん(中)と竹内さん(右)に病室での思い出を語る大倉さん(撮影・藤井康正)



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