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日本に在りて |
平和の原点 優しさ伝える
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在日韓国人三世の徐麻弥さん(21)は、広島市立大(安佐南区)に入学した三年前、日本での通名に別れを告げ、本名を宣言した。「本名で生きても、日本社会ではいいことがない」。こう諭す二世の父や日本人の母たち家族の心配を振り切った。 福岡県出身。高校時代、在日韓国・朝鮮人が集まる夏季合宿を機に、祖国への思いが強まった。大学では、平和関連の講義を積極的に受け、ポーランドにアウシュビッツ強制収容所を訪ね、北朝鮮にも渡った。カザフスタンの核実験被曝(ひばく)者とも対面した。次は、ヒロシマに迫りたい。 同じ三世で広島市に生まれ育った朴依子さん(20)は、被爆三世でもある。平和学習を受け、祖父(80)から被爆体験を聞いた。来年の韓国留学を前にもう一度、同胞のヒロシマを聞きたい。広島修道大(安佐南区)四年の田中裕子さん(21)は、縁遠い存在だった「在日」の人たちの生きざまに触れたいと考えた。 「自分の体験でよかったら」。在日韓国人二世で被爆者の郭福順さん(76)=西区=が、三人の思いをくんだ。 住み込みで家事手伝いをしていた十七歳の夏、爆心地から約九百メートルの大手町(中区)で被爆した。当時の名前の星野福子は、小学校入学の際、育ての親である伯父が古里の慶尚北道星州郡を懐かしんで付けたという。 体の皮がずるむけの女性、血みどろでのたうつ男性…。まぶたに浮かぶ光景は残酷で、涙が言葉を遮る。人前で被爆体験を話せるまでに四十年余りかかった。「子どもたちの心の片隅にでも残れば」との願いだけが、くじけそうな気持ちを奮い立たせてきた。 郭さんは、三人と平和記念公園(中区)で待ち合わせ、原爆慰霊碑近くの木陰へと誘った。炎を避けて入った天満川にも案内した。「平和の原点は、身近にいる人に優しさを広げていくこと」。修学旅行生にそうするように、穏やかな口調で語り始めた。 |
【写真説明】平和記念公園で60年前の体験を丁寧に語る郭さん(左から3人目)。じっと聞き入る左から田中さん、徐さん、朴さん(撮影・藤井康正) |