エノラ・ゲイ


輝く展示機体 震え泣いた

被爆者から
小倉桂子(おぐら・けいこ)さん(67)

 爆心地から2.4キロの広島市牛田町(東区)で被爆した。代表を務める「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」(HIP)は、和英の平和事典や被爆地ガイドの発行もしている。
若者へ
府木拓(ふき・たく)さん(16)
木本美由貴(きもと・みゆき)さん(16)

 2人とも広島市出身で広陵高(安佐南区)2年生。府木さんは今年1月、テニアンを訪問。英語研究部長の木本さんは、今後のテニアンとの交流に英語力を生かす。




 広島に原爆を投下したB29爆撃機は、機長の母の名前を機首に冠していた。「エノラ・ゲイ」。現在は米自治領となった北マリアナ諸島連邦テニアン島から飛び立ち、一九四五年八月六日、広島に原爆「リトル・ボーイ」を投下した。きのこ雲の下の犠牲者には、幼い子や母たちもいた。

 それから五十八年後の二〇〇三年十二月、エノラ・ゲイは復元され、米ワシントン郊外のスミソニアン航空宇宙博物館新館に銀色の機体を横たえた。一般公開初日に訪れた通訳の小倉桂子さん(67)=広島市中区=は足がすくみ、震え、泣きだしたという。原爆投下の直前、空をキラキラ光りながら飛んでいたのを見た。それが今、眼前に誇らしげに、輝いている。

 牛田町(東区)の自宅近くにいた。難を逃れてきた被爆者たちに足をつかまれ、水を求められた。あまたの死を見た。

 「おめでとう。日本人は原爆のおかげで、腹切りしないで生きていられた」。米国で一九八七年、第一回核被害者世界大会に出向いた際に、小倉さんはそう語り掛けられた経験もある。

 きのこ雲の上と下のどちらに視線を置くかで、大きく異なる日米の意識のギャップ。それを少しでも埋めなければと小倉さんは「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」(HIP)を八四年に設立し、代表を務める。米国の若者たちと向き合い、自らの体験を語ってきた。

 そのエノラ・ゲイの発進地テニアンを訪ねた高校生がいる。現地の学校との交流をこれから本格化させる安佐南区の私立広陵高の生徒たち。二年の府木拓さん(16)は今年一月、青い海に囲まれた島で、原爆搭載機が飛び立った滑走路を見た。日本兵が自決した岬も見た。地元の若者たちは、原爆とヒロシマのことをもっと知りたがっていた。

 同級生の木本美由貴さん(16)とともに、小倉さんの体験を聞いた。B29の映像が流れ、「リトル・ボーイ」の模型を展示する原爆資料館(中区)を三人で回った。原爆投下の理由を考えた。米国、テニアン、広島を結ぶ意味を思った。



【写真説明】
原爆資料館で、広島に投下された原爆「リトル・ボーイ」の模型を見上げる、左から木本さん、小倉さん、府木さん(撮影・今田豊)



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