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恐怖の放射線 |
若い医学生 手だてなく
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うめく被爆者の治療を手伝いながら、当時十八歳の若い医学生は原爆の放射能の恐ろしさに身震いした。その体験が戦後、被爆者のがんについて研究し、核戦争を防ぐ運動に取り組む「原点」となった。 核戦争防止国際医師会議(IPPNW)日本支部事務総長を務める横路謙次郎さん(78)=広島市南区。原爆投下当時、広島の医師は空襲に備えて市外への疎開が禁止されていた。だから、多くの医師は原爆に傷つき、命を落とした。生き残った医師たちは治療に追われた。ひっきりなしに続く患者の列に、薬はすぐに底をついた。 自身は当時、広島県立医学専門学校(現広島大医学部)に入学したばかり。原爆投下の前日、広島県北へと疎開し、熱線は浴びなかった。 惨状を知り、広島に戻ったのは投下の三日後。広島逓信病院(中区)の庭に張ったテントで、治療や遺体解剖に追われる医師を手伝った。外傷が少ない被爆者の血液検査をした時のこと。白血球などが通常の一割に減っている。「おかしい。何かが起きている」 原爆とは知らない。焼け跡から引っ張り出した台に犠牲者の遺体を乗せ、解剖した。首から腸にかけまっすぐメスを入れると、胸にも腹にも血がいっぱい。体内深く、放射線は人間の命を襲っていた。止血機能も奪うのだと、疑問の答えは見えかけた。しかし、なすすべは分からなかった。 無力感を覚えた日から六十年。広島の医師や研究者たちは、被爆者にがんや白血病などの後障害が多いことを突き止めてきた。だが今も、がんの詳しい発症メカニズムは分からない。 後輩の医学生二人、広島大医学部(南区)四年の播磨綾子さん(21)と郷田聡さん(22)が横路さんを訪ねた。先輩の「原点」である広島逓信病院や、後障害について伝える原爆資料館(中区)を三人で回った。 播磨さんには悩みがある。国際交流サークルに加わり、昨年九月には中国・北京での国際医学生会議で原爆被害を説明した。だがどうも「ヒロシマが伝わった」との実感が持てないでいる。無力感への答えを、横路さんとの対話に探そうとした。 |
【写真説明】播磨さん(右)と郷田さん(中)とともに原爆資料館を訪れ、放射線の後障害について説明する横路さん(撮影・荒木肇) |