目撃者


ファインダー越し苦悶の顔

被爆者から
尾糠政美(おぬか・まさみ)さん(83)

 広島、三次市内での写真店勤務を経て1941年から陸軍船舶司令部写真班員に。退役後は古里の島根県瑞穂町(現邑南町)や川本町で写真館を営んできた。
若者へ
土佐岡恭大(とさおか・やすひろ)さん(20)
福森卓也(ふくもり・たくや)さん(19)

 2人とも広島工業大専門学校(西区)映像メディア学科2年生。収録した被爆者4人の手話による証言は6月末をめどに、1時間程度のビデオに編集する。土佐岡さんは中区、福森さんは呉市出身。




 原爆に焼かれた広島を歩き、灰色の街や苦悶(くもん)の被爆者を撮影した男たちがいた。軍人、写真家、新聞記者…。当時五十―十七歳だった二十人で後に結成した「広島原爆被災撮影者の会」は、惨禍を後世に伝えるためフィルムを持ち寄り、写真集を出版した。

 生存する会員は今、四人になった。その一人、陸軍船舶司令部写真班員だった尾糠政美さん(83)=島根県川本町=も、心臓にペースメーカーの助けを借りて生きる日々だ。

 閃光(せんこう)の瞬間、宇品(広島市南区)にあった船舶司令部で将校の訓示を受けていた。爆心地から約四キロ。外傷はなかった。母マキノさん=当時(62)=が暮らす皆実町(南区)に駆け戻ったものの姿はない。周囲には、柱の下敷きになった年寄りや子ども、防火水槽に首を突っ込んだまま動かない女性。ラバウル、ガダルカナルと戦火をくぐり抜けてきたが、「そこで見たどんな光景よりも悲惨だった」と断じる。

 翌八月七日、上官の命令で似島(南区)に渡った。臨時野戦病院となった陸軍第二検疫所で、全身が焼けただれた男性とファインダー越しに視線が合った。十カットを撮影して市内に戻り、今度は焼け野原や遺体の山にピントを合わせた。涙をこらえ、二週間で百回以上、シャッターを切った。

 そうして残した写真は敗戦後、米軍の検閲を逃れるため一部を残して土中に埋めたり、焼却処分したりしたという。

 広島工業大専門学校(西区)二年の土佐岡恭大さん(20)と福森卓也さん(19)は今年四月、聴覚障害がある被爆者四人が手話で語る証言をビデオに収めた。感情が高ぶるほどに早まる手の動きに、音のない世界で味わった恐怖を知った。

 二人はその後、原爆資料館(中区)西館で尾糠さんの写真を見た。映像分野の大先輩が検査で市内の病院を訪れると知り、対面した。広島湾から似島を望み、証言に耳を傾けた。病弱な尾糠さんとの対面は二時間が限度。後日、中国山地の懐にある自宅を訪ね、尾糠さんがファインダー越しに目撃した世界と再び向き合った。





【写真説明】
今は県営倉庫となった陸軍船舶司令部跡で、涙ながらに被爆体験を語る尾糠さん(左)。メモの手を休め、じっと聞き入る福森さん(中)と土佐岡さん(撮影・荒木肇)



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