胎内の記憶


顔知らぬ父に思いはせ

被爆者から
畑口実(はたぐち・みのる)さん(59)

 胎内被爆者で、1955年に開館した原爆資料館の10代目館長。初代と7代目以降が被爆者だ。戦後生まれは初めて。
若者へ
浦上晶絵(うらかみ・あきえ)さん(25)
山下勇作(やました・ゆうさく)さん(22)
吉居哲弘(よしい・てつひろ)さん(21)

 浦上さんは府中市出身。昨年夏、青年海外協力隊員として派遣先の中米ニカラグアで原爆展を開催。山下さんは鹿児島県、吉居さんは長崎県出身。2人とも広島大総合科学部4年生で被爆体験を聞いたことはない。




 母の胎内で被爆した人がいる。原爆資料館(広島市中区)の館長、畑口実さん(59)=広島県大野町=もその一人だ。被爆地の「案内役」に就任した一九九七年、大いに悩んだという。前三代の館長はいずれも自分の言葉で体験を語れる被爆者。自分には、語るべき被爆の「記憶」がない。何をどう伝えればいいのだろう。

 館長室に、記憶代わりの品を大切に保管している。針が文字盤に焼き付いた懐中時計と、ベルトのバックル。父の二郎さんの遺品である。

 当時三十一歳だった父は、現在のJR広島駅前(南区)にあった広島鉄道局管理部に勤務中、被爆死した。その四日後、母チエノさん(87)が捜しに行き、この遺品二点とともに、近くにあった骨を持ち帰った。実さんを身ごもって二カ月だった。

 むろん、父の顔を見たことはない。二十一歳で被爆者健康手帳を取得したが、四十歳を超えるまでは使わなかった。医療費が実質無料になることが「哀れみを受けるようで嫌だった」からだ。チエノさんに当時の状況を詳しく尋ねたことも、ほとんどなかった。

 避けてきた原爆への思い。館長就任の翌年、原爆展を開くためインドに向かうことになった。父の五十回忌を機に墓に納めた遺品を思い出し、あえて取り出した。インドで大学生たちに見せた。黙って聞くその表情に、手応えを感じた。

 母の話もじっくり聞いた。以来、核兵器保有国の米国やフランスなど七カ国八都市の原爆展で証言を重ねる。資料館を訪れる内外の要人や修学旅行生たちを案内するたびに、母の体を貫き、胎児にも影響を及ぼす放射線の恐怖を伝える。

 父の死から六十年。畑口さんは父が原爆に奪われた場所をあらためて調べた。赴任先のニカラグアで原爆展を開いた元青年海外協力隊員の浦上晶絵さん(25)と広島大四年の山下勇作さん(22)、吉居哲弘さん(21)の三人とともに訪れてみた。現在の広島東郵便局の辺りだ。続いて資料館を巡った。「記憶」を継承するすべを、それぞれが考えながら。



【写真説明】
父が被爆死した辺りで、山下さん(右端)と浦上さん(左から3人目)、吉居さん(左端)に原爆への思いを語る畑口さん(撮影・藤井康正)



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