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孤児と笑顔と |
境遇同じ 番組が縁で結婚
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アルバムに張った一枚のモノクロ写真の中で、新郎新婦は緊張した笑顔を浮かべている。取り囲む三台のテレビカメラも写っている。「このときは恋愛感情なんてなかったのよ。テレビのための結婚だったんだから」 広島市南区でお好み焼き店を営む梶山敏子さん(64)。一九六二年三月二十七日、夫の昇さん(64)との結婚式の会場は、市内のテレビ局のスタジオだった。「原爆孤児同士の結婚」と二人の姿は、全国に生中継された。 四歳のとき、爆心地から一・二キロの上天満町(現西区)の自宅で被爆した敏子さん。十日市町(中区)に建物疎開作業に出ていた母小椋弘子さん=当時(22)=は行方不明のまま。父は戦時中に病死していて、戦後は祖父母と暮らした。 昇さんは五歳だった。父は外地で戦死し、母を原爆に奪われた。自らも爆心地から約一・八キロの比治山本町(南区)で被爆した。 結婚式の九年前、被爆地に「広島子どもを守る会」が結成された。梶山さんたちのように両親を亡くした孤児たちを学費や文通などで支える「精神養子運動」が広がった。テレビ結婚式のカップル探しは、守る会の青年部である「あゆみグループ」に持ちかけられた。周囲はメンバーの敏子さんと昇さんを指名した。 番組のために急きょ決まった縁談。二人はそれから四十年余り、幸せな家庭を築いてきた。息子二人を授かった。「毎日が幸せよ。私にはもったいない主人にも恵まれて」 かつて精神親たち周囲からの支援は、どことなく重荷にも感じた。逆に自立心を強く覚えた。そして今、お好み焼きのへらを握り続け、昇さんに見守られて、敏子さんは素直に自分の半生を、笑顔で振り返る。 広島大大学院で教育学を研究する卜部匡司さん(28)と植村広美さん(28)は、戦後の混乱を生きた子どもたちの「心」に迫りたいと考えていた。一方で、つらかったに違いない孤児たちの人生を聞くことに、はばかられる気持ちもあった。 そんな二人を、「KAJISAN」と書かれたのれんと、「いらっしゃい」との敏子さんの快活な声が出迎えた。鉄板をはさむ対談。敏子さんが終始、笑顔を絶やさないことに、二人は驚いた。 |
【写真説明】テレビ結婚式当時のアルバムを広げ、植村さん(左)、卜部さん(右)とともに60年の歩みを振り返る梶山さん(撮影・藤井康正) |