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 第1部 原爆小頭症患者は今

 母と娘

 一秒でも長く生きたい

■行く末思い 揺れる親心

 夏本番を思わせる日差しを照り返し、石畳がまぶしい。気温はぐんぐん上がった。六月上旬のある昼下がり、親子は広島市中区の平和記念公園に姿を見せた。原爆小頭症患者の行く末を考える集いがあったからだ。

原爆投下から60年。復興を遂げた街並みが広がる。原爆小頭症の娘と母は社会と距離を置き、この街の片隅で生きてきた(撮影・田中慎二)

 人懐こい笑顔で、おじぎを繰り返す娘(59)。つえなしに歩けない母(84)は、詰め掛けた報道陣のカメラに戸惑い、つぶやいた。「来にゃあ、よかった」。娘に向けられるまなざしを、母は「好奇」の視線と思ってしまう。口をつぐんだ。

被爆地なら…

 十年前のこと。母と娘は住み慣れた北九州市を離れ、被爆地広島をついのすみかに選んだ。忌まわしい記憶の地であっても、被爆者への視線は温かいに違いない。自分の体が元気なうちに、根っこを張った生活を築こうと、母は考えた。

 小頭症は胎内での直接被爆が原因であって、遺伝とは関係ない。だが、「被爆した女性は障害児を産む」との誤解が広まり、被爆者の結婚差別を招いた時代もあった。「『原爆に遭った』と人に話し、いわれのないいじめを受けたことがあるんです」と母はこぼした。幼いころのことを思い出すのか、寄り添う娘の目が赤みを増す。

 二十年間住み慣れた北九州には息子もいる。だが、被爆後の困窮時に里子に出された経験から、原爆の話を嫌うという。幸せな家庭を築いてもいる。母は、息子に負担を強いるつもりは一切ない。だから、頼れる知人や親せきはいなくても、娘とともに決然と広島を目指した。自分が先に死んでも、娘は周囲の理解を支えに、一人で生き抜いてほしい―。

 六十歳に満たない娘ともども高齢者施設への入所はできないため、まずは県営住宅に暮らし始めた。娘は間もなく市内の知的障害者施設に通い始め、箱作りなどで収入を得るようになった。

 初めての給料日。娘は封筒を手に、声を弾ませて戻ってきた。「ねえねえ、お母さん。私の顔をじっと見て。私の目は輝いているでしょ」。母は今も、このときの笑顔が忘れられない。

深み増すしわ

 おなかに宿ったころも含め六十年の間、二人は一度たりとも離れずに生きてきた。来春、娘は還暦を迎える。顔のしわが深みを増すその姿に、傘寿を過ぎた母は願う。「娘より一分でも一秒でも長く生きたい。みとってから死にたい」

 娘の自立は容易ではない。親心は揺れ続ける。母はつえを握りしめ、自分と家族の人生を一瞬のうちに変えたあの日の閃光(せんこう)を悲しく、恨めしく思い出す。

(2005.7.10)

「ヒロシマ60年 記憶を刻む」

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