■老いてさらに困難
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サインのような皆本さん(右)の手話を読み取り、吉上さん(左)が現代手話に組み立て直す。手話通訳者の河合さん(中)は両方の手話を見て意図を推し量る(撮影・宮原滋)
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爆心から三・六キロ。現在の広島市西区の広電古江駅近くで被爆した皆本徳男さん(86)=広島市安佐南区。現代手話が分からなかったり、読み書きが苦手であったりしたため、取材では十分に思いをくみ取ることができなかった。高齢化する被爆ろう者に共通する「継承の難しさ」にぶち当たった。
取材にあたった記者の野崎は、学生時代に手話を学んだ。しかし、皆本さんの手話を見て黙り込んだ。「ほとんど分からない」。話の流れを追えなかった。
日本の手話は、かつて方言のように地域ごとにばらばらだった。しかも同じ地域でも親しいグループしか通じないサインのようなものもあった。戦後、「標準語」の現代手話が普及したものの、お年寄りのろう者には、現代手話が分からない人も多い。
皆本さんの手話も一種のサインに近く、古くから交友があるろう者しか理解しにくい。皆本さんへの取材は、友人のろう者で現代手話も分かる吉上巌さん(71)にまず通訳してもらい、手話通訳者の河合知義さん(57)に訳してもらう「二段階通訳」の手法を取った。
「手話ができなくても筆談がある」。取材前、記者の木ノ元はそんな考えも抱いていた。だが、戦前のこと。ろう学校に通えなかった人もいる。皆本さんもその一人だ。読み書きが不自由で筆談での取材はできなかった。
さらに、当時のろう学校では、読唇や発語といった口話教育が重視された。被爆ろう者には「学校は行ったけれど、読み書きは不得手」という人も多く、あの日の記憶を伝えることをさらに困難にさせている。
古くからの友人である吉上さんでも、皆本さんの手話を読み解けない部分があった。通訳作業が止まると、皆本さんは悲しそうな顔をした。「なぜ、分かってくれない」と言いたそうに。今、皆本さんの部屋には、現代手話のテキストが並んでいる。
■通訳者から |
意思疎通の壁 崩せたら
広島県手話通訳問題研究会事務局長 河合知義さん(57) =広島市東区
「えーと」。手話と出合って三十五年になるが、高齢ろう者の手話を見るたび迷う。どんな音声語に換えたらいいのか。表情豊かな話になかなかついていけない。
最近は、ろう者の社会参加も広がってきたけれど、以前は手話通訳者はほとんどいなかった。通訳をしていたのは家族たち。身近であるがゆえ、知っているはずと思ってしまったり、伝えるのがおっくうになったりすることもあった。
何げなく聞いて知り得た情報が、聞こえない彼らには伝わらない。逆に彼らの思いや体験も、聞こえる人たちには届かなかった。コミュニケーションの壁を両方から崩せたらと願っている。
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胸の内に寄り添いたい
広島県手話通訳問題研究会理事 國近洋子さん(58) =広島県大野町
幼いわが子をおぶって被爆した女性への取材。最初は核心に触れる部分になると「忘れた」「忘れた」と、悲しそうにほほ笑まれた。その目の奥で「忘れたい」「忘れたい」と語っているようで、心の傷は今も完治していないのだと感じた。
被爆ろう者は、脳裏に焼きついた惨禍を、手で、体で、目で訴える。彼女独自の身ぶりは、音声語に置き換えにくく、吉上さんの一次通訳を介してやっと役目を果たすようなありさまだった。
体験を語ってくれる被爆ろう者は、ほんの少数。証言を残す事の難しさを知った。せめて凄惨(せいさん)な体験を語るろう者の心に添った通訳をしたいと思った。
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「情報過疎」の状況知る
山口県手話サークル連絡協議会副会長 綾城明美さん(58)=山口市
三十五年以上、山口県で手話通訳を通じて、ろう者を支援する活動をしてきた。なのに、近くに住む知り合いの女性ろう者が被爆者であることをまったく知らなかったことに衝撃を受けた。
通訳で感じたのは、被爆ろう者は二重の被害を受けていたということだ。一つは、原爆による肉体的、精神的な痛み。もう一つは、手話が否定され、読唇のみを強いられた当時の社会で、なかなか周囲の状況を把握できない「情報過疎」に陥っていた事実だ。
取材を受けた女性が今後、いろいろな会合で体験を披露する「語り部」をスタートさせることができるよう、応援していきたいと思っている。
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継承へ新たな一歩 |
■手話劇■
聞き取った実話ベースに
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手話劇のけいこ風景。「原爆の怖さを伝えたい」と、見やすい手話と演技を工夫している(撮影・今田豊)
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広島市内のろう者と手話サークルの十八人が八月七日、中区の原爆資料館メモリアルホールで手話劇「広島に生きて」を披露する。ろう者で会社員の蔵本則彦さん(41)=安芸区=が「被爆体験を演技で継承しよう」と、自らの取材を基にシナリオを書き上げた。
「もっと表情をつけた方がいいよ」。主人公役の女性に母親役の女性が手話でアドバイスした。中区の地域福祉センターで今月十日にあった劇のけいこ。メンバーは戦争や被爆の臨場感を出そうと、配置や演技を相談しながら練習を重ねる。
大阪から息子二人を連れて広島市内の実家へ帰省していた女性が、原爆で母親と息子の三人を失うストーリー。蔵本さんが約十年前、被爆ろう者の女性から聞き取った話をベースに作った。
蔵本さんは十五年前、被爆ろう者の体験談を初めて聞き「自分が原爆についてあまり知らないことにショックを受けた」という。原爆資料館の展示などに、ろう者の記録が少ないことに気付き、独自に被爆ろう者の取材を始めた。
これまで取材したろう者は十五人。すでに文章にして、将来は本にまとめることも考えている。
今回、手話劇を思い付いたのは、取材した人も次々と亡くなる中、体験が風化してしまう恐れがあると考えたから。「原爆や戦争を知らない世代でも悲しみや思いを疑似体験することができるのでは」と考えている。
市ろうあ協会TEL082(262)2579=ファクス兼用。
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■若者たち■
証言の様子ビデオ収録
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ろう者の被爆体験を映像に収める広島工業大学専門学校の学生たち(撮影・木ノ元陽子)
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一九九六年から毎年夏に、ろう者から被爆や戦争体験を聞く会を開いている特定非営利活動法人(NPO法人)広島県手話通訳問題研究会(広島市)。今回の取材でも、同研究会メンバーを中心とする五人の手話通訳者が協力してくれた。
被爆六十年の今年、同研究会は、被爆体験を手話で語る四人のろう者の証言の様子をビデオに収めた。応援してくれたのが広島工業大学専門学校(同市西区)映像メディア学科の学生だ。
その一人、二年小田雅代さん(19)=尾道市=は祖父が被爆者。でも、自分が生まれた時には既に亡くなっており、肉声を知らない。「被爆者の思いにふれたい。だから、手を挙げました」
証言の収録現場では、普段穏やかな被爆者の顔が厳しくなった。学生たちは手話が分からない。「厳しい表情は恐怖心か、憎しみか、戒めか…」。聞けないもどかしさも感じた。
「継承するって難しい。でも貴重な体験になった」と小田さん。現在、仲間と編集作業に励んでいる。
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