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 第3部 追体験

 向き合う母と子

 断片たぐり「あの日」共有

■「残したい」思いを重ね

 車いすに座り、母は言葉にならない声を振り絞った。広島市西区、JR横川駅の改札口前。いぶかる通行人の視線には構わず、長男は寂しそうな表情を浮かべた。「ここから(列車に)乗ったんかって? わしには分からんのよ」

「ここから北に向かったんよね」。母しげ子さん(左)とあの日を振り返る矢野聖さん(撮影・今田豊)

射抜いた閃光

 六十年前のあの日、配電業を営む矢野聖(きよし)さん(62)=安佐北区=は確かにここにいたらしい。「断片はあるんです。どこかの駅だった。腕の皮がむけた人を見た」。二歳の記憶は、ほんの小さなかけらでしかない。

 母しげ子さん(90)にとっては強烈な体験だった。聖さんと娘二人を連れ、可部町(安佐北区)の実家に疎開するため、この駅で列車に乗りこんだ。発車寸前の車内を、閃光(せんこう)が射抜いた。

 翌日、夫と可部で再会できた。一緒に焼け跡に戻ってみると、上天満町(西区)の自宅で義母はおなかの部分を残し、骨になっていた。その肉塊を持ち帰り、しげ子さんは心を鬼にして黒くなるまであぶったという。原爆の熱線でやけどした二女の顔に、薬代わりに塗るためだった。

 夫は十六日後、もだえながら息絶えた。

 しげ子さんは和洋裁の仕立てで戦後を生き、三人の子を育て上げた。孫にも恵まれた。しかし、一九八二年と八五年の二度、脳内出血で倒れ、全身まひに。自在に操れない言葉を聞き分けるのは、聖さんたち家族だけとなった。

半年で本完成

 被爆体験を残したい意識は、しげ子さんは人一倍強いらしい。四年ほど前、「本にしたい」と言い出した。聖さんは母と向き合うことにした。仕事に少し余裕ができたし、何より「自分の人生もかかわっている」。

 毎日、ベッドわきに座った。義母の遺体を見つけ焼いたときのように切なく怖い場面で、しげ子さんの声はかん高くなる。聖さんの気持ちは時に、とげとげしくなる。言葉は聞き取りにくく、六十年前の情景は思い浮かばない。いらだたしさは母にも伝わり、互いに疲れた。半年がかりで何とか本は完成した。

 そして今年七月。聖さんは寝台タクシーで横川駅へとしげ子さんを連れ出した。「最後の機会」のつもりだった。新たな記憶を引き出したいとの期待もあった。しかし、逆だった。駅前ロータリーは二人をあの日から遠ざけるかのように、その光景を一変している。

 帰ろうとも迷ったが、散策したい衝動に駆られた。商店街を通り、駅北口へ回った。「この辺から三人で北に逃げたんよね」。息子の問い掛けに母は空を見上げ、こくりうなずいた。「ありがとう」と繰り返した。

 帰りの車内、しげ子さんは冗舌になった。燃えさかる自宅方面を振り返り、夫や義母のもとに引き返そうかと随分迷ったこと、聖さんたち三人の子の顔を見て、その思いを振り払ったこと…。聖さんには初耳だった。

 新たな記憶のかけらが、ひとつ見つかった。

(2005.7.25)

「ヒロシマ60年 記憶を刻む」

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