アジア記者

広島・長崎取材終えて  <アジア記者手記>
アジア記者のメッセージ(上)/「被害と加害」
アジア記者のメッセージ(下)/平和への思い

ヒロシマ取材のアジア記者が帰国の途へ
アジア記者、長崎で取材
アジア記者、長崎市長を取材
アジア記者が原爆小頭症の畠中さん取材
アジア記者4人が市長にインタビュー
アジア記者、ヒロシマ積極取材
アジア記者が広島入り

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ヒロシマ取材のアジア記者が帰国の途へ

'97/8/14

 広島国際文化財団(山本朗理事長)の「アジア記者招請プロジェ クト」で広島を訪れていた三カ国四人のジャーナリストが十三日、 二十五日間の取材日程を終え、広島をたった。

 四人は、午前八時三十二分広島発の「ひかり」で大阪へ向かっ た。ホームには同プロジェクトの関係者らが見送りに来て、別れを 惜しんだ。

 インドの英字週刊誌アウトルック特派員のプラサド・クリシュナ さん(29)は午後二時に、フィリピンのテレビ・ラジオ会社GMAネ ットワークの記者ジョン・マナラスタスさん(26)とカメラマンのジ ョゼフ・テグルさん(26)は午後六時に関西空港からそれぞれ出国し た。

 タイの英字新聞バンコク・ポスト記者のクンチャリー・タンスパ ポンさん(29)は十四日早朝、帰国する。タンスパポンさんは「復興 した広島の姿を自分の目で確認できた。帰国後は読み物的なリポー トをぜひ書きたい」と話していた。

 アジア記者は滞在中、広島・長崎の平和祈念式典などを意欲的に 取材した。

【写真説明】取材を終え、広島を離れるアジア記者の4人(13日午前8時半、広島駅新幹線ホーム)


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アジア記者、長崎で取材

'97/8/10

 広島国際文化財団(山本朗理事長)のアジア記者招請プロジェク トに参加している三カ国四人のジャーナリストは九日、長崎市の平 和公園であった平和祈念式を取材した。

 一行は、平和の泉からの献水などの様子などについてメモを取り ながら取材した。原爆が投下された午前十一時二分、鐘の音ととも に黙とう。臨界前核実験の中止などを求める伊藤一長長崎市長の長 崎平和宣言に、英文訳を手に聞き入った。

 タイのバンコク・ポスト紙記者、クンチャリー・タンスパポンさ ん(29)は「広島の式典に比べ、高校生が司会をするなど形式ばらな い雰囲気があった。市長の平和宣言からは、広島市長の宣言と同様 に平和を願う強い思いが感じられた」と印象を話した。

 一行は十日も長崎市内で取材を続け、十一日に広島へ帰る。


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アジア記者長崎市長を取材

'97/8/9

 広島国際文化財団(山本朗理事長)のアジア記者招請プロジェク トで来日中のジャーナリスト四人が八日、長崎市の伊藤一長市長を 訪ね、日本の加害責任などについて取材した。

 フィリピンのテレビ・ラジオ会社GMAネットワークのジョン・ マナラスタス記者(26)が「長崎市民は戦争の犠牲者と思うか、加害 者と思うか」と問い掛けたのをはじめ、他の記者からも「原爆資料 館の展示に批判があったと聞いた」「原爆を投下した米国に謝罪を 求めるよう政府に働きかけないのか」など、鋭い質問が相次いだ。

 伊藤市長は「核心を突いた質問だ」と感心しながら「被爆者には 被害の意識があるが、一方で、先の大戦でアジアの人たちに迷惑を かけたことに反省と謝罪の気持ちを忘れてはならない」「原爆投下 国を恨むのでなく、体験を基に核兵器と人類が共存できないと訴え たい」などと答えた。

 四人は九日、平和祈念式典や被爆遺跡を取材する。


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アジア記者が原爆小頭症の畠中さん取材

'97/8/5

 広島国際文化財団(山本朗理事長)が主催する「アジア記者招請 プロジェクト」でヒロシマを取材中のジャーナリスト四人が四日、 岩国市で原爆小頭症の畠中百合子さん(51)と父親の国三さん(81)を 取材した。

 一行は、国三さんが経営する同市川下町二丁目の理髪店と自宅を 訪問。百合子さんを妊娠していた妻の敬恵さん(七八年に死亡)が 爆心地から約七百三十メートルで被爆した時の状況、現在の百合子さんの 生活などについて、国三さんの説明を聞いた。

 国三さんは「百合子は原爆の悲劇を伝える使命を持って生まれて 来た、と思い証言を続けている。原爆の被害は未来にもつながると 知って」と四人に訴えた。

 記者たちは「国三さんが亡くなったら、だれが百合子さんを世話 するのか」「原爆を投下した国の軍隊が現在岩国にいることを、ど う思うか」などと真剣な表情で質問していた。

 タイの英字紙バンコクポストの女性記者、クンチャリー・タンス パボンさん(27)は「テレビのドキュメンタリー番組などで知っては いたが、実際に百合子さんに会い、被害の実態に衝撃を受けた。帰 国後、国三さんの話を記事にまとめたい」と話していた。

【写真説明】国三さんと百合子さん(左から2人目)を取材するアジア記者


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アジア記者4人が市長にインタビュー

'97/7/29

 広島国際文化財団(山本朗理事長)の招きでヒロシマ取材を続け ている「アジア記者招請プロジェクト」のジャーナリスト四人が二 十八日、広島市役所に平岡敬市長を訪れ、核兵器廃絶への取り組み やヒロシマと日本のアジア侵略とのかかわりなどを一時間半にわた りインタビューした。

 タイの英字新聞バンコク・ポスト記者のクンチャリー・タンスパ ポンさん(29)は、スペイン・バルセロナで開催中の原爆展について 「アジアでも開く考えはないか」と質問。平岡市長は「原爆展は大 勢の人の関心を集め、海外の子供たちが千羽づるを折るなど平和の ために行動するよいきっかになっている。受け入れ団体や自治体さ えあれば、ぜひアジアでも開きたい」と意欲を見せた。

 第二次世界大戦で日本の侵略を受けたフィリピンのテレビ・ラジ オ会社GMAネットワークの記者ジョン・マナラスタスさん(25)は 「原爆投下は日本の残虐行為に対する報い、との受けとめ方につい てどう思うか」と尋ねると、「残虐な行為については認めるし、ま ず謝りたい」とした上で「日本は降伏寸前で、原爆を落とす必要は なかった。日本が悪かったからといって原爆投下が正当化される と、今後世界に悪い国が生まれたら核兵器を使ってもいいことにな る」と、アジアの人々に理解を求めた。


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アジア記者、ヒロシマ積極取材

'97/7/22

 広島国際文化財団(山本朗理事長)の「アジア記者招請プロジェ クト」で来日した三カ国四人のジャーナリストが二十一日、広島市 中区の平和記念公園を訪れ、原爆慰霊碑に参拝。八月十三日まで二 十四日間にわたるヒロシマ・ナガサキ取材を開始した。

 四人は、インドの英字週刊誌アウトルック特派員のプラサド・ク リシュナさん(29)、タイの英字新聞バンコク・ポスト記者のクンチ ャリー・タンスパポンさん(29)、フィリピンのテレビ・ラジオ会社 GMAネットワークの記者ジョン・マナラスタスさん(25)とカメラ マンのジョゼフ・テグルさん(26)。

 原爆慰霊碑に花束をささげた後、原爆資料館を見学。原爆の放射 線や熱線による被害を生々しく示す写真や遺品を、メモを取りなが ら二時間以上かけて見て回った。マナラスタスさんは「原爆が想像 以上に残酷で悲惨なことが分かった。戦争の愚かさを再考するきっ かけとなるようヒロシマ取材の成果を母国で放送したい」と話して いた。

 記者たちは公園内で署名活動をしていた反戦グループの若者に早 速、インタビューしたり、昨年十二月に世界遺産に登録された原爆 ドームや「原爆の子の像」を写真やビデオに収めるなど精力的に取 材を進めていた。二十二日も、原爆資料館を畑口実館長の案内でさ らに詳しく見学。被爆語り部の沼田鈴子さん(73)から体験を聞く。  


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「アジア記者」広島入り

'97/7/21

 広島国際文化財団(山本朗理事長)の第六回「アジア記者招請プ ロジェクト」に参加する三カ国四人のジャーナリストが二十日、広 島入りした。二十一日から被爆者や原爆関連施設などの取材を開 始。五十二年目を迎えたヒロシマ・ナガサキを各国に発信する。

 四人は、インドの英字週刊誌アウトルック特派員プラサド・クリ シュナさん(29)、タイの英字新聞バンコク・ポスト記者クンチャリ ー・タンスパポンさん(29)、フィリピンのテレビ・ラジオ会社GM Aネットワーク記者ジョン・マナラスタスさん(25)とカメラマンの ジョゼフ・タグレさん(26)。

 関西空港に着いた四人は、午後四時五十一分着の「のぞみ」で広 島駅に到着。笑顔でプラットホームに降り立ち、財団職員らの出迎 えを受けた。

 日本は初めてというクリシュナさんは「パキスタンとの対立が続 くインドは、核保有問題を抱えている。核兵器を持たず戦後発展し た日本をつぶさに取材し、核戦争が再び起きないよう両国に伝えた い」と意欲満々。タンスパポンさんも「若者への平和教育の在り方 や女性ジャーナリストについても取材したい」と張り切っていた。

 この後、一行は広島市中区のホテルにチェックイン。八月十三日 まで二十五日間の取材日程などについて説明を受けた。

【写真説明】新幹線で広島駅に着いたアジア記者の4人、左からクリシュナさん、タンスパポンさん、マナラスタスさん、タグレさん


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