広島・長崎取材終えて  <アジア記者手記>

 アジアのジャーナリストたちが、広島・長崎の被爆の実相を中心に日本の文化や経済、人々の生活を取材する広島国際文化財団(山本朗理事長)の第六回「アジア記者招請プロジェクト」は、二十五日間にわたるスケジュールを終了した。インド、タイ、フィリピンから参加した四人のジャーナリストたちは、それぞれの国の歴史や現状、日本との関係と、プロジェクトでの取材とを照らし合わせながら、精力的にインタビューを行い、若者や被爆者らさまざまな背景をもつ人々との対話を積み重ねた。「五十二年目のヒロシマ・ナガサキ」からジャーナリストたちは何を吸収したのか。プロジェクトを振り返る手記を寄せてもらった。

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8月6日朝、原爆慰霊碑の前で平和祈念式の参列者にインタビューするアジア記者。 左からマナラスタスさん、タンスパポンさん、クリシュナさん
●取材・行動の記録 


* * *  非核・平和の願い 国境超え結ぼう  * * *


復興した街 努力に感動 インド英字雑誌アウトルック特派員 プラサド・タリシュナさん(29) プラサド  日本は、インドから物理的にとても遠い国である。飛行機で九時間かかる。そして心理的にも、とても遠い。ほとんどのインド人は、日本について知らない。ほとんどだれも日本を訪れることはない。インドでは千五百の新聞が発行されているが、そのうち日本に特派員を派遣しているのは一紙だけである。

 無知は誤解を生む。あるインド人の同僚は、「日本人は不親切だ」と言った。あるイギリス人の友人は、「私の会社は、日本に滞在している社員に、『日本はとても物価の高い国なのでホテルの部屋から一歩も出るな』と言う」と教えてくれた。

 友人が話していた印象は、いつも私の頭の片隅にあった。だれ一人英語を話さず、純粋な菜食など存在しない国で、二十五日間無事に過ごせるだろうか。

 食べ物にもかかわらず、私は何とかもちこたえ、来日前に聞いたのとは全く違う印象と思い出を胸に、インドに帰国する。

 新幹線から初めて広島に降り立つまで、私は、広島がまだ過去を抱え込んでいるだろうと思っていた。しかし、私が見たのは、生き生きと躍動する喧(けん)騒の都会だった。「これは何だ」と思った。

 その夜、ホテルで部屋へ行くのにエレベーターに乗った時、そしてビールの缶を開けた時、「一九四五年八月六日、午前八時一五分」が私の目に、ものすごい勢いで飛び込んできた。エレベーターとビールの缶には、フロアなどを示す点字の説明があったのだ。

 広島・長崎の被爆者、平和祈念式典、原爆資料館といったすべてのものから私たちは五十二年前に起こったことを思い出すが、実は、(障害者に配慮した)点字のような小さなものこそが二つの市にふりかかった悲劇を真に伝える。

 その意味でこの旅は学習の旅だった。原爆とその影響、そしてその余波について学んだ。しかしそれ以上に学んだことは、人々がどのようにして原爆の被害を乗り越え、前進したかということである。

 普通の人々と接し、人々が何を考えているかを知らなければ、どんな経験も生きないと私は思う。幸いにも私は、それを経験することができた。邪心や偏見、政治的偏向のない普通の人々のものの見方から教わることが多かった。

 この旅について書くことで世界が変えられるだろうか。もちろん変えることはできない。しかし、広島国際文化財団のアジア記者招請プロジェクトで広島に来たことで、日本や日本人、原爆やその犠牲者に対する私の考えは確かに変わるだろう。実際、すでに変わってきている。広島と長崎に感謝をささげる。約五十年間に何を成し遂げたかを見せてくれたことに対して。

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意義深い祈念式典

タイ英字紙バンコクポスト記者 クンチャリー・タンスパポンさん(29) クンチャリー  原爆。被爆者。核兵器。そして平和の推進…。日本に来る前、私はこれらのことについてほとんど知らなかった。しかし、アジア記者招請プロジェクトで広島と長崎に三週間以上滞在し、これらのテーマについて多くを学び、視野を広げることができた。

 プログラムは、学習する機会であったと同時に、楽しいものでもあった。さまざまな資料館を訪れた。例えば、広島の原爆資料館には、広島への原爆投下がいかに重大な影響を残したか、そして核兵器廃絶に向け、どのような努力がなされているかが興味深く展示されていた。

 しかし、長崎の原爆資料館の方が、最初の原爆がなぜ日本に投下されたのか、その原因と結果について、より興味深い展示がされていたように思う。つまり、帝国陸軍の残虐行為のために無数の罪のない人々がどれだけ苦しんだか、そして平和の推進がいかに重要であるかということについての展示である。

 広島と長崎の平和祈念式典にも参加した。第三者の私にとって、式典は、被爆者やその親類の方々にとってほど意義深いものではないかもしれないが、式典が今後も続けられることを心から望んでいる。なぜなら式典は、日本の若者たちや、海外から訪れる人々にも、二つの原爆がいかにして人々を殺傷し、なぜ平和の推進が必要であるのかを思い出させてくれるからである。

 これまで度々プログラムの印象を尋ねられたが、広島・長崎で過ごした二十五日間は、日本や日本人、そして二つの市について理解するには短すぎた。しかし、特に日本人については多くの印象を受けた。

 市内の家庭での二日間のホームステイでは、ホストファミリーはほとんど英語を話せなかったし、私はほとんど日本語が話せなかった。それでもコミュニケーションをはかることができたし、彼らの寛容さと友情に感動した。

 プログラムを終え、私は、一人のジャーナリストとして広島と長崎の平和祈念式典や被爆者たちの記事を書き、タイの読者に伝えたい。

 タイの人々は、被爆者たちのように深刻な経験をしていないので、すべての読者に、これらのテーマについて理解してもらうのは難しいだろう。しかし、より多くの読者が原爆の危険性について理解と知識を深め、核兵器廃絶の必要性を認識してくれると信じている。

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真の歴史継承を

フィリピンのテレビ・ラジオ会社GMAネットワーク記者 ジョン・マナラスタスさん(26) ジョン  一日のスケジュールが終わる度に「疲れていないか」と尋ねられた。私はいつも「疲れていない」と答えたが、本当はとても疲れていた。体ではなく、心が。それでもなお私は、被爆者の日々の苦しみの一端さえ理解できていない。被爆者が今経験している同じ苦しみを、決してもうだれも経験することがないよう切実に願う。

 この旅で学んだのは、戦争では一方が完全に間違いで、一方が完全に正しいことはありえないということだ。一方が完全な被害者で、一方が完全な加害者であることもありえない。だからこそ私は、平和のために尽力する広島と長崎の人々を称賛したい。

 しかし、核兵器反対が平和をもたらすと思い違いをしないでほしい。核兵器廃絶は、平和への長い道のりのほんの第一歩にすぎない。

 広島と長崎のいずれの原爆資料館でも、日本軍の残虐行為が重要視されていないのは悲しかった。原爆や東京大空襲については知るだろうが、南京大虐殺や「バターン死の行進」についてはどうだろうか。

 フィリピンは、戦時中多大な苦しみを味わったが、その記述はごくわずかしかない。フィリピンから連行された従軍慰安婦は、たった一行しかふれられていない。歴史の教訓としてまず子供たちに教えなければならないのは、戦争のすべての側面である。

 多くの日本人と触れ合い、礼儀正しさや、優しさに感動した。差別を感じたことは一度もなかった。日本との間に苦い過去をもつフィリピン人としてそれは最も意義深い経験だった。子供のころ「日本人は簡単に人を殺す残酷な人々だ」と教えられた。今はそれが真実でないとわかった。日本人は教育によってただ洗脳されていただけなのだと。教育こそが平和へのかぎであることを忘れまい。

 また、原爆投下という戦争犯罪について、米国は正式に裁判にかけられるべきだと思う。投下の警告だけで十分だったし、二つ目の原爆は全く不必要だった。

 第二次世界大戦にかかわる問題はまだ解決していない。戦争を経験した人々が生きている間に、謝罪と補償の問題を早急に解決してほしいと願う。

 核のない世界はいかにして実現できるだろうか。その答えとして、被爆者の坪井直さんの言葉をあげたい。「国境のない世界。いつも世界的な視野をもつこと」。これは夢であると私自身わかっている。しかし、この夢と、戦争がもたらす悲惨な現実とどちらをあなたは選ぶだろうか。

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忘れられぬ表情

フィリピンのテレビ・ラジオ会社GMAネットワークカメラマン ジョゼフ・タグレさん(26) ジョゼフ  カメラレンズの目を通して戦争を見つめるのは、日常とは全く違った経験である。物事がより鮮明に見え、その細部や焦点を定めた対象にいつもより鋭い注意を向けることになる。

 広島・長崎への原爆投下の前とその瞬間、そして投下後の生を記録するという仕事は、これまでで最も困難を伴うものだった。多くの殺人や苦しみを見てきたが、今回の経験は、それらすべてを上回る。

 その思いを象徴するのは、長崎原爆資料館で見た一枚の写真である。それは、原爆投下後に道ノ尾駅前の臨時救護所で撮影された母子の写真だった。その母のうつろな表情を、私は生きている限り忘れることができないだろう。

 傷ついた子供を胸に抱きながらも、母親の目に苦悩の色は見えなかった。ただうろたえた様子で、どうしてこの出来事が彼女とその子供に起こったのかを静かに問い掛けていた。母にしがみつく幼子の姿もまたそれを問い掛けていた。おそらく母親は、その出来事が 起こる前も数え切れないほどそうしたように、本能的に、わが子を苦しみから救おうと願っていたのだろう。

 今、私にとってただ一つの慰めは、広島と長崎がいかに変化を遂げたかを見ることだ。廃虚から立ち上がった不死鳥のように、人々は多くの困難を乗り越え、再び繁栄を取り戻した。さらに、広島と長崎の人々は、核兵器の全廃と世界平和の実現に向け、全力を傾けている。今、私自身も、広島・長崎の人々とともに、苦しみと努力を分かち合いたい。

 滞在期間中、さまざまな考えや意見を耳にした。その上で、容易には答えを出せない、いくつかの問いかけをしたい。

 もし原爆が投下されていなかったら、過去五十二年間、日本は平和を享受することができただろうか。

 これはカトリック教徒としての問いだが、なぜ多くの日本人は神への恐れを感じないのか、そしてそのことはあなた方日本人と私たちフィリピン人にどのような影響を与えているのか。

 (アジア諸国への侵略に対する謝罪や補償を通して)過去と和解することなしにどうやって誠実に未来を見すえることができるのだろうか。

 最後に、広島国際文化財団と広島市、長崎市の人々をはじめ、すべての人々に感謝したい。そして被爆者の方々に祈りをささげる。



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