【死者はコンピューターの中に】


 広島に投下された原爆でいったい何人の人が亡くなったのでしょうか。

 この質問には今も正確な答えがありません。それは、1945年8月6日午前8時15分に、当時の広島市に何人の人がいて、残留放射能の影響が強かったとされる8月20日までに何人が危険な区域に入ったか。その一人ひとりが、いつ、何の障害で死亡し、いま何人が生存しているかを知ろうとする営み―つまり原爆被害の真相を問うことだからです。

 この問いのために、何度も、いろんな方法で調査が行われました。被爆直後の広島県警察部の調査で、広島市の調査で、国の被爆者実態調査で、爆心地付近の一軒一軒を戸別詳細地図に書き込む復元調査で、その後に発見された被爆直後からの学校や職場の死没者名簿からの採録で・・・

 それらの成果は、判明した死者の名前を次々に登録していく方法で、広島市のコンピューターで統合されつつあります。果てしない調査ですが被爆50年を経た今日も、それは続いています。


あの朝、何人いたのか

 1945年8月―。戦争末期の広島の街では、かなりの数の人の出入りがありました。軍隊に徴兵されて他の地区の部隊へ行く人、逆に新たに徴兵されたり、他の地区から転属になって広島へ集まる兵士がいました。建物疎開のため広島から引っ越す人がいる一方で、仕事の都合で広島に住み始める人もいます。そうした中で6日朝、原爆が投下されたのです。

 市民として定住した人の数は、食料配給のため広島市がつかんでいた対象者の数などから約28〜29万人と推定されます。

 市内にいた軍隊の諸部隊の人員は4〜5万人とも言われますが正確には分かりません。

 朝鮮半島から移り住んできていた人、強制的に徴用されるなどして市内の工場などで働いていた人とその家族。中国や東南アジアの国々からの留学生、米軍の捕りょ、その他の外国人も被爆しました。

 さらに建物疎開などに動員された近郊からの国民義勇隊の人々、この日に用事があって市内に向かった人もいました。

 その後の調査を通じ、現在考えられている推定数は合わせて35万人前後ですが、まだ不明な点を多く残しています。とりわけ朝鮮人被爆者数については、2万5千〜2万8千人、あるいは5万人とする報告もあります。


−直後の推定死者数「約14万人(誤差±1万人)」−

 広島市は1976年、原爆被害について国連に資料を提出しました。この中で、被爆直後の急性放射線障害が一応おさまった1945年末までに「約14万人(誤差±1万人)が死亡したとする推定死者数を出しました。1945年末は、原爆の「直後の死者」を考える一応の節目とされる期日で、実数を把握する調査でも、その時点までの総死者数と同時に、1945年末までの死者数をまとめています。


『広島・長崎の原爆災害』の人口推定

(1979年、広島市、長崎市原爆災害誌編集委員会刊行・岩波書店)


1944年2月政府の人口調査   34万3034人

1945年6月末の米穀配給登録者 24万5423人

●これらと当時の人口増減を考えた一般市民居住人口

               28万〜29万人

●軍関係者

 米国戦略爆撃調査団に報告された

 広島にいた陸軍部隊の兵員数 2万3158人

      海軍関係など推計 2万人

      合わせて    約4万3000人



●国民義勇隊、徴用労働者として動員された朝鮮の人々、

 そのほかの人々を合わせて被爆時所在人口の総計

 《推定35万人前後》

※原爆災害誌編集委員会は、この数字を基礎にして「全体としては13万人前後の人々が11月はじめまでに死亡したと推定される」としている。


さまざまな調査

■広島県警察部(県警本部)は1945年11月30日に県内各警察署に調査を指示、 12月中旬に原爆の人的被害をまとめました。

▼死者78,150人
▼重傷9,428人
▼軽傷27,997人
▼行方不明13,983人
▼被災者176,987人
306,545人

調査範囲は広島県内で、軍関係者は含まれていない。調査結果は1946年2月に連合国軍総司令部発表の形で報道された。

■この調査をはじめ、広島市などで被害実態をつかむ努力が続きました。1950年には国勢調査に合わせたABCCの依頼による調査、1952年に原爆慰霊碑の完成に合わせて市が行った原爆死没者名簿作成のための死没者調査がありました。これらは軍関係者が入っていなかったり、範囲が限られるなどの「空白」があり、全体像をつかむには限界がありました。

■1969〜76年に「被災全体像調査」があり、爆心地から半径 500〜 2,000bの旧 114カ町を対象とした焼失地域の復元作業が行われました。これは被爆当時の住民も協力、被害の「空白」を埋める運動の性格も持って進められ、その後の調査を促す力になりました。

■1965年から厚生省の被爆者実態調査が10年ごとに国勢調査に併せて行われましたが、死没者調査が本格的に取り入れられるのは1985年の調査からです。この時の調査は全国の被爆者に自分の知っている死没者を教えてもらう方式で、新たな死没者確認に役立ちました。

■広島市はこれらの成果をコンピューターで統合する「被爆者動態調査」を継続しています。1991年の第4期調査の結果では、この時までの被爆死亡者総数は22万1407人で、1945年末までの死亡者は9万 104人でした。

 これでも広島市が推定した「14万±1万人」の死亡者数とは相当の開きがあります。

平和記念公園付近の爆心地復元地図がほぼ完成。説明する当時の広島大学原爆放射能 医学研究所の志水清所長=手前(1969年7月19日付中国新聞)