【世界へ移り住んだ被爆者】


 1945年夏に広島で被爆して、その後、世界の各地へ移り住んでいった人たちがいます。

 朝鮮半島から戦前に来ていた人、戦争中に徴用、強制連行されて広島にいた人の中にも、戦後になって韓国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に帰った人がいます。中国や東南アジア諸国からの留学生なども故国へ帰りました。戦後の移民で、米国、カナダ、ブラジルなどへ渡った人もいます。日本の国際化とともに戦後50年の間に外国で生活するようになった人もいます。

 多くの被爆者がいる広島と違い、被爆者特有の症状をよく知っている医師も身近にはいません。被爆12年後に日本国内でやっと始まった行政による援護の手も、限られた方法でしか届きません。

 外国人被爆者の場合、帰った国の事情によっては周囲から「軍国主義時代の日本にいた人物」と見られて、苦しい思いをした人もいます。その中で、母国と日本の交流、平和な時代への橋渡し役になって活動した人もありました。

 こうして世界に広がったあの日の被爆者は、ヒロシマにとって大切な人々です。被爆50年後の世界をともに生きる仲間として、手をとり合っていかねばなりません。


●被爆女性の里帰り
原爆で傷ついたケロイドの治療のため米国に渡り、結婚した田坂博子さんが夫のハリー・ハリスさんと5年ぶりに広島へ里帰りしました(1970年3月1日)
●在米被爆者の検診
 広島からの派遣医師団による2回目の在米被爆者の集団検診が行われました。眼底検査、血液検査など35項目の検査です。日米両国の谷間で心身両面で苦しんできた受診者たち。「こちらの医師には言いにくかったことも打ち明けられ、胸のつかえが取れた」という声もありました(1979年5月14日)
●米上院で証言
 米ソ核戦争の惨状を描いてみようという米上院の保健科学小委員会の公聴会で、広島で被爆した在米被爆者4人が証言しました。「原爆ケロイド治療のため日米で36回の手術を受けた」などの証言に傍聴席は静まり返りました。ケネディ小委員長は「核戦争に勝者はなく、敗者があるだけだ、ということがはっきりした」と述べました(1980年6月19日)

在韓被爆者問題  1968年10月、広島で被爆し原爆症の治療を望んで密入国した韓国人女性が山口県内で逮捕されました。日本と韓国人被爆者の関係は戦後も険しさに満ちていました。

 この時、広島で「被爆者救援日韓協議会」が結成され、(1)韓国人被爆者救援(2)日韓両国政府間で渡日治療の取り決めが結ばれるよう運動する、という方針が決められました。

 1957年にできた「原爆医療法」は、日本国内に滞在していれば外国人であっても被爆者として医療援護が受けられる法律でした。渡日治療は、外国人被爆者が日本に来て被爆者健康手帳を取得して医療を受ける方法です。しかし実際に韓国から訪れた被爆者に手帳が交付されたのは1964年のことでした。

 政府間合意に基づいて渡日治療が試行されたのは1980年。翌年から本格的に実施され、1986年まで18回行われた渡日治療で広島、長崎合わせて 349人の韓国人被爆者が日本で治療を受けました。これは韓国政府の抵抗もあって中断。日本政府はその後、韓国の被爆者に40億円の援護基金を送りました。

 韓国人被爆者の組織、韓国原爆被害者援護協会(ソウル市)は1967年に発足しました。在韓被爆者問題は日本が行った戦前の植民地支配、強制連行などが背景にあり、その歩みも曲折の多いものでした。


●韓国へ診察医療団
 核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)などが派遣する韓国診療医療団の決団式。広島原爆病院の医師らがソウル、釜山などで韓国人被爆者を診断し、その訴えを聞きました(1971年9月14日)
●渡日治療
 日韓両国政府の合意に基づき、治療のため来日した在韓被爆者10人が広島市から被爆者健康手帳を交付され、原爆病院へ入院しました(1980年11月18日)