【核兵器の恐怖を体験した人々】


平和祈念式

慰霊のこころ

 原爆に遭った広島の市民にとって、原爆の犠牲になった人への思いは痛切です。

 肉親を失ったり、同僚や友人を亡くすことはどのような場合でも悲しい、悔しいことです。死の状況が特にむごたらしく、人としての尊厳があまりにも損なわれた死者であれば、その思いはより強いのです。

 被害がひどくて遺体や遺骨と対面もできなかった人がいます。戦争のために徴兵され広島を離れていて、農村に学童疎開に行っていて、帰ってみたら一家が全滅していた人もいます。

 炎が燃え盛る街で、「助けてぇ」という人の叫びを振り切って、その場を立ち去らざるを得なかった人たちは、死者たちへのすまない気持ちを今も抱き続けています。

 こうした市民の間の痛切な思いが慰霊の行事を生みました。被爆1年後の1946年8月6日、原爆投下の午前8時15分に全市民が黙とう。現在は平和記念公園になっている慈仙寺鼻で戦災死没者一周年追悼法会が営まれました。翌年から、朝鮮戦争が起きた1950年を除いて現在の平和祈念式に当たる式典が行われ、死没者を追悼し、平和を祈ることが、市の行事として定着しました。現在の正式な名称は「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」です。


平和への訴え

 平和祈念式では、前年の8月6日以降に亡くなった被爆者の名前を毛筆で書き込んだ原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に奉納され、遺族の代表らが花をささげます。これが「慰霊」の式です。これに続く市長の平和宣言、首相、衆参両院議長などのあいさつは「平和」の式。両方を合わせて平和記念式典と呼ぶこともあります。

 首相の式典出席は1971年の佐藤栄作首相が最初で、94年には村山富市首相が出席して平和への決意を述べ、式後に被爆者代表の意見を聞くなどしています。

 式典には、全国の遺族代表のほか、広島の復興に尽くした外国人、国連の要人などが招かれます。被爆33回忌の77年には国連のアメラシンゲ総会議長(スリランカ)が出席し、「全面的な軍備撤廃」の誓いをささげました。

平和宣言(全文)

 原子爆弾による広島壊滅の日から五十年が経過した。あの日をしのび、犠牲者の御霊に心から哀悼の意を表するとともに、高齢化が目立つ被爆者の苦難を思い、改めて核兵器の開発と保有は人類に対する罪であることを強く訴える。

 この半世紀の間、私たちは原子爆弾がもたらした人間的悲惨、とりわけ放射線被害という人類史上初めての惨禍を広く世界へ知らせ、核兵器の廃絶を一貫して呼びかけてきた。しかし、国家間の不信は根強く、核兵器はなお地球上に大量に蓄積され、私たちの願いに正面から立ちふさがっている。核兵器の保有を国家の力の象徴と考える人たちがいる現実に、私たちは深い悲しみを覚える。

 原子爆弾は明らかに国際法に違反する非人道的兵器である。どこの国であれ、また、いつの時代であれ、核兵器がある限り、広島・長崎の悲劇が再び地上に現出する。それは人類の存在を否定する許されない行為である。

 人類が未来に希望をつなぐためには、今こそ勇気と決断をもって核兵器のない世界の実現に取り組まなければならない。私たちは、その第一歩として核実験の即時全面禁止とアジア・太平洋における新たな非核地域の設定を求める。日本政府は、日本国憲法の平和主義の理念のもとに、非核三原則を高く掲げ、核兵器廃絶に向けて先導的役割を果たすべきである。また、核時代の証人である内外の被爆者に対する温かい援護について一層の努力を要請する。

 核兵器の保有は決して国家の安全を保障するものではない。また、核兵器の拡散や核技術の移転、核物質の流出も人類の生存を脅かす。それらは人権抑圧、飢餓・貧困、地域紛争、地球環境の破壊などとともに平和を阻む大きな要因である。

 現代は地球の安全保障を考えなければならない時代である。私たちは国家の枠を超えて人間として連帯し、英知を結集し、平和を築くために行動していきたい。

 第二次世界大戦終結五十年を迎えるにあたって、共通の歴史認識を持つために、被害と加害の両面から戦争を直視しなければならない。すべての戦争犠牲者への思いを心に深く刻みつつ、私たちは、かつて日本が植民地支配や戦争によって、多くの人々に堪え難い苦痛を与えたことについて謝りたい。

 記憶は過去と未来の接点である。歴史の教訓を謙虚に学び、次代を担う若い世代に原爆や戦争の悲惨さを語り継いでいくとともに、平和の基礎となる人間教育に力を傾けたい。生命と人権が何よりも大切にされる社会にこそ、若い世代は限りない希望を抱くであろう。

 被爆五十周年の平和記念式典にあたり、核兵器の廃絶と平和な世界の実現に向けて、今後も努力を続けていく決意をここに表明する。

平成七年(一九九五年)八月六日   広島市長 平岡 敬

「平和宣言」の意味

 原爆で亡くなった人たちに、生き残った市民が平和のために行動する決意を誓い、同時に日本政府に国内の政治、世界の国々との交渉の場でヒロシマの願いを実現するよう求め、世界の人々に戦いを防ぎ、平和に共存する道を歩もうと呼びかけるのです。

 1947年(昭和22年=被爆2周年)の最初の式典(当時は平和祭)いらい、その時の市長が宣言文を読み上げてきました。原爆で亡くなった人たちの霊を慰めるために最も意味のある行いは、生きている者が力を合わせて平和を実現することだ、という考え方は変わりません。


「生存への情熱」が広島の復興を支えた

 1995年春、広島市中区江波山公園にある1本の桜の木が、世界で一つしかない新品種と分かり、「ヒロシマエバヤマザクラ」と命名されました。高さ14㍍、樹齢 150年。5枚から13枚の花弁が重なる花を無数につけたこの木は、当時の広島地方気象台の建物が原爆の熱線をさえぎり、50年の間、生き続けていたのです。

 広島の復興も、実はこの「生命の尊さ」にふれて行われた営みでした。被爆直後に「原爆の影響で70年は草木もはえない」と言われたこともありました。しかし、焼け跡にはちっちゃな草の緑が顔をのぞかせていました。人々は励まされ、この街の復興を真剣に考えました。被爆後2年ほどの間に、広島市では各界の市民から30件近い復興に関する提案がありました。
 提案のいくつかは、市中心部に慰霊の公園や記念施設、防災の空間といこいの場になる大通りを設ける、としていました。それが現在の平和記念公園、幅 100メートル、長さ4キロの平和大通りと一帯を包む緑地になりました。

 広島市の人口は 110万人(1995年3月末)。中国四国地方の中心的なこの街は、1980年に政令指定都市になり、経済的にも発展を続けています。原爆で住む場所、食べ物にも事欠く暮らしの中から、何とか生き抜こうとする決意をバネにした市民の働きが、その原動力でした。

 人間と自然と建造物と、その集まりである都市を「生きることの大切さ」を基本にはぐくんできた、それが広島の復興の大きな道筋です。


「平和都市建設法」と「平和公園」(1949年8月6日)

●「広島平和記念都市建設法」の公布

 第1条 この法律は恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目標とする

 国が広島市に協力し、広島を復興させるための法律で、特別な都市計画、国などの援助、国有財産の譲渡など7条と付則で構成される短い法律です。長崎国際文化都市建設法とともに、5月11日に国会で成立し、市民による住民投票(7月7日実施、賛成多数)を経て、正式に公布、施行されました。

●「平和記念公園の設計」の発表

 広島市の平和記念公園と平和記念館の設計は4月に公募され、8月6日に、 154点の中から丹下健三グループの設計が一等(賞金7万円)になりました。この案は、百メートル道路(現在の平和大通り)沿いに、平和記念館の施設として、中央に「記念陳列館」、東側に「平和記念本館」、西側に「集会所」を配置。陳列館を柱で浮かして両側の建物と廊下で結び、中央のアーチを通して旧産業奨励館(原爆ドーム)が見通せる設計でした。

 中央のアーチが原爆慰霊碑になるなど、その後、実際に建ったものとは少し違っています。しかし基本的な構想や配置は生かされ、「陳列館」と「平和記念本館」は現在の原爆資料館、「集会所」は公会堂・ホテルを経て、現在の広島国際会議場になりました。

 ―【百メートル道路】平和大通りの通称―
 幅 100メートル×長さ4キロ、全国で最も空間の広い通りです。原爆被災の経験から、災害時の避難場所、火事の延焼をくい止める防災空間として市街地中央につくられました。平和記念公園をはさむ平和大橋と西平和大橋は、彫刻家イサム・野口氏の設計で1952年に完成しました。

―【原爆慰霊碑】1952年 8月 6日に完成―
 外観は古代のはにわ型、内側に原爆死没者名簿を納める石室があります。碑文は「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれています。

 原爆死没者名簿には、被爆して死亡が確認されたすべての人の名前が国籍の別なく記載されています。現在の碑の外観は、1985年に改築された2代目です。


残された悲しみ

 原爆がもたらした被害は、人間の殺傷、街や家の破壊にとどまりません。人々が暮らしていくのに欠かせない人と人のつながりにも致命的な傷を残しました。

 広島で被爆した家族のうち、最も悲惨だったのは一家全滅です。この場合には、その悲惨な死を代わって訴える家族もいないのです。

 家族のうち親が亡くなって子供だけになった場合、その子らは戦争直後、「原爆孤児」と呼ばれました。この人々は進学、就職、結婚などその後の人生で多くの苦難に直面しました。

 子供を亡くしたり、夫や妻を亡くした人は、戦後の混乱期を寂しく生き、年をとるにつれ孤独な老いに耐えねばなりませんでした。「原爆孤老」と呼ばれる人々です。

 原爆によるこれらの損失を「社会的被害」と呼んでいます。働き手をなくして経済的な基盤を失い、原爆の後遺症にも十分な医療が受けられず、曲折の多い人生を生き、そして独り暮らしになった人々…。広島にはこんな被爆者も多いのです。

●親を失って

 原爆の時、「学童疎開」で広島の両親のもとを離れ農村で勉強していた子供たちがいました。広島に行った先生から「広島は原爆にやられた」と聞いて不安におびえ、家族が迎えに来るのを待ち続けた子供たち。その中に、秋になって肉親が亡くなったことを知らされた子らがいました。

 ある子は親類、ある子は祖父母の家に。またある子は兄や姉と暮らしを始めました。どこにも頼る人がない子は当時「孤児収容所」と呼ばれた施設に引き取られていきました。しかし一時期は、行き場のない子供たちが群れをなして駅や盛り場の雑踏で食べ物をねだり、街でお金を稼ごうとする姿がありました。

 孤児収容所には、アジアの各地から引き揚げてきた戦争による孤児たちも収容されました。政治家や軍人たちが始めた戦争の悲惨な結末。その一番の被害者であった子供たちが、ここから戦後の人生を始めたのです。
●傷ついた女性たち

 戦後数年たった広島市内の小学校の教室。子供たちは新しく担任になった女の先生の顔にビクっとしました。尾形静子先生のほおには原爆のケロイドの跡が生々しく残っていました。薄い化粧の下の、この火傷の跡について先生は淡々と話しましたが、子供たちは先生の心の傷がどれだけ深いかすぐに分かりました。きゃしゃな体の先生は、その後も戦争がいかに愚かで悲惨かを静かに話し、子供たちはそのたびに「大きくなったら平和のために働く人になろう」と思ったのでした。

 広島には尾形先生と同じように顔にケロイドを持つ若い女性が何人もいました。女性たちの苦しみは大きいものでした。1955年5月5日、こうした女性のうち25人が米軍岩国基地からケロイドの治療のため米国に出発しました。米国の「土曜評論」主筆ノーマン・カズンズさんが、女性たちのことを知って渡米治療計画を立て、米国で呼びかけて実現させたのです。広島の2人の医師が同行して米国に向かった女性たちはニューヨークのマウントサイナイ病院で治療を受けました。この女性たちの中からもその後、積極的に自分の体験を語りかけ、平和を呼びかける人たちが生まれました。
●独り暮らし

 被爆後20年たったころから、被爆者の高齢化が問題になってきました。

 45歳で被爆した人が65歳になるという時間的なことも大きな問題でした。しかし、被爆者の「高齢化」には被爆の影響で肉体的な老化が早まる「加齢減少」、家族が原爆で欠けたために独り暮らしになる比率が高いという現実がありました。それは年とともに深刻になり「原爆孤老」と言われるお年寄りを救うことが、大切な課題になりました。

 1985年、中国新聞社は原爆の時に比治山の陰になって残った段原の街で、被爆者 700人の消息を追う取材をしましたが、被爆した孤老の暮らしは、病気の不安とともに、孤独であることのつらさに耐える厳しいものでした。居間の壁にかかる夫や子供たちの遺影の前で、一人で食事をするお年寄りに何人も出会いました。

 広島市内には現在、原爆養護ホームが3施設あり、その定員は合わせて 500人です。これは国や県、市の援護行政によるもので、民間の施設などにもお年寄りはいます。しかし家にいると、施設にいるとを問わず、別れ際にお年寄りが付け加えるのは「もう原爆はいけんよ。やめさせにゃあ」という切実な言葉です。


被爆者たちの訴え

 1947年8月1日の中国新聞の「掲示板」の欄には、市民のこんな動きが載っています。

 ◇段原新町の日の本教本部は1日、戦災死没者慰霊祭 ◇県ろうあ連盟は5日、吉島本町ろうあ学校(当時)で原爆犠牲者の追悼法会と連盟結成大会 ◇広島学生混声合唱団は2日、平和の歌発表音楽会の練習 ◇皆実町2丁目東部自警団は2日、原爆3周忌法要、追善芸能大会。

 被爆3回忌の町々で人々は死者の霊を慰める準備をし、若い人々は平和を祈っての町おこしに乗り出していたのです。

 被爆者たちが戦後にやってきた行動は、《死者の慰霊》《援護の叫び》《平和の訴え》の3つであるように思われます。

 家族を亡くした悔しさは「この損失を国に償ってもらいたい」という思いになり、「もう原爆はごめんだ」という気持ちが平和への行動になり、原爆の後遺症から「元気になりたい」という願いが医療・生活の援護を求める訴えになりました。

 3つの行動はいつも同時にあって、時には他の人々から理解されないこともありました。しかし「生きようとする者の心を大切に」という被爆者たちの願いと行動は、少しずつ地域へ、全国へ、世界へ伝わり始めました。それは核時代の今、人類が持たねばならないモラルと共通のものだからではないでしょうか。

 1994年は被爆50回忌でした。3回忌からの47年間の、世界の変化は大きなものでした。

 東西の冷戦は旧ソ連の解体によって終わり、核兵器は人類のお荷物になり、人々は武力対立よりも相互依存の道を探し、環境に気を配りながら共存していく、新しいシステムの出現を切実に待ち望んでいます。

 被爆者は再び深い鎮魂のときを過ごし、21世紀に向かう世界を再構築していく人の輪の中で、働こうとしています。


核戦争に勝利者はいない

 広島市平和記念公園の原爆慰霊碑の碑文の意味は、過去いく度か、議論になりました。

 安らかに眠って下さい 
 過ちは 
繰返しませぬから

 「だれが『過ち』を犯したのか」「原爆の死者に対して謝罪し、繰り返さないと誓うのは、だれか」。それが問題です。

 1952年11月、広島市であった世界連邦アジア会議に出席していたインドのR・B・パル博士(極東軍事裁判の判事の一人)は、「ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのが日本人でないことは明瞭である。落としたものの手はまだ清められてはいない」と憤激した表情で語ったと言います。

 碑文を書いた雑賀忠義広島大学教授は当時、市の広報で、「二十世紀文明の犯した最大の過ちは、広島の原爆であった。過去に低迷している広島市民ではない。飛躍して人類のなし得なかった仕事をしようという光明を見いだす。過ちを繰り返さぬという決意は、長崎と共に広島がなし得る特権である。人類の光明は、広島のいっ角からとすれば、犠牲はむだではない」と、その意味を述べています。

 雑賀教授が碑文を英訳するに当たって長男が留学している米国イリノイ大学に意見を求めたといいます。その文面は

 Let all the soul here rest in peace
 For We shall not repeat the evil.

でした。

 その「We」は原爆後に生き残った者、碑の前に立つすべての人間というほかありません。

 これは雑賀教授だけの思考ではないように思われます。多くの被爆者たちは、原爆の実際と体験を通して、「こんなむごいことは、もう二度とあっちゃあいけん」「この先、世界のだれも犠牲にしてはいけない」と訴えてきました。

 そこにはもう、敵と味方というとらえかたは存在しません。原子爆弾と、それを出現させた戦争そのものをなくそうと誓ったのです。それが「not repeat the evil 」と合致することはいうまでもありません。

 米国では、大統領が「原爆投下決定は正しかった。謝罪しない」と言ったりしています。

 しかし被爆者は、米国に敵対する気持ちや謝罪を求めるために、「原爆はいけない」と言っているのではありません。核兵器をこのまま持ち続ければ、その被害を世界のだれかが受けることになるという思いがあるだけです。


被爆者援護法を求めて

 1994年12月9日、参議院本会議で「被爆者援護法(原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律)」が可決、成立しました。被爆者援護法そのものは被爆者が長い間求めてきた法律です。しかし広島では、2つの違った思いが入りまじった反応がありました。

 1つは「被爆50年を前に『被爆者援護法』という名の法律ができてよかった」という思いです。もう1つは「法文に国が被害を償うという法律の性格を示す『国家補償』の言葉がない」「国が支給する特別葬祭給付金を受け取る対象を、遺族である被爆者だけに限定している」ことへの反発でした。被爆者たちの長い歩みを振り返ると、そのどちらも当然の反応に思われました。また1人の人の心の中でも、2つの思いは交錯していたのでした。新しい法律の施行は1995年7月1日。被爆者援護の運動は1つの節目を迎えると同時に、新たな歩みを始めようとしています。

●日本被団協

 1956年8月10日、第2回原水爆禁止世界大会が開かれていた長崎に全国の被爆者団体が集まり、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が発足しました。

 その目標は、核兵器の廃絶、被爆者援護法の制定、そして被爆者の団結でした。  「被害者団体」にしたのは肉親を失った遺族もまた原爆の被害者だと考えたからでした。国は被爆後10年余り、薬を買うお金にもこと欠く被爆者に、救いの手を差しのべませんでした。米国との講和条約で国は、戦争中の被害についての請求権も放棄しました。このため被爆者たちは「被害は国が償うべきだ」「国は新たな核被害者をつくらない決意を法律で示すべきだ」と考えたのです。

●原爆医療法

 被爆から12年、被爆者医療を国が援護する法律ができました。1957年4月1日の「原爆医療法」施行です。この法律は「被爆者」を「被爆者健康手帳の交付を受けた者」とし、その対象を直接被爆者、入市被爆者、死体処理や救護の従事者、胎児に区分しています。対象範囲、援護の内容が法律の改正で変わっていますが、国の援護行政の出発点でした。

【被爆者健康手帳】
 原爆医療法(1995年7月から「被爆者援護法」に統合)は「被爆者」を「被爆者健康手帳の交付を受けた者」と定めています。交付対象は(1)直接被爆者(2)入市者(3)死体処理及び救護に従事した者など(4)胎児―で、医療費援護を受ける場合の証明書にもなります。手帳には名前、住所のほか、被爆時年齢、被爆場所・爆心地からの距離などが記され、健康診断の血液、尿、肝機能検査などのデータを書き込む欄が設けてあります。

●被爆者特別措置法

 「原爆が人間に与えた被害を直視してほしい」という願いが、被爆者の生活に目を向けた援護要求になり、世界に体験を証言し続ける運動とともに展開されました。1965年に国は初めて被爆者実態調査をし、1968年に被爆者特別措置法を制定。療養に必要な手当などを支給し始めました。

●国家補償

 被爆者が求めた国家補償による被爆者援護法への壁は厚いものでした。社会党を中心とした当時の野党は、毎年のように「被爆者援護法案」を提出しましたが、継続審議・廃案を繰り返すばかり。社会保障制度審議会の答申に基づいて厚生省は原爆被爆者対策基本問題懇談会(7人委)を設けました。

 だが1980年に提出された意見書は、原爆医療法は「国家補償的性格を持つ」としながらも、一般戦災者との均衡が取れないとして被爆者援護法を事実上退けたのです。野党提案の援護法案は参院で2度可決されましたが、成立しませんでした。そして被爆50年を目前にした援護法審議に持ち込まれたのです。

被爆者援護法の50年
1945年8月6日広島で原爆被災
1945年12月7日広島戦災者同盟大会 知事に「食料、衣料、住宅を」
1951年8月27日広島原爆傷害者厚生会結成
1953年1月13日広島市原爆障害者治療対策協議会(原対協)発足1953年2月22日 広島子どもを守る会発足
1954年3月1日第五福竜丸にビキニ死の灰
1954年5月15日原水禁広島市民大会。原爆障害者立法を訴え
1955年4月25日広島・長崎の被爆者が「原爆裁判」提訴。(1963年12月、「原爆投下は国際法違反」の東京地裁判決)
1956年5月27日広島県原爆被害者団体協議会結成
1956年8月10日日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が発足
1956年9月11日広島原爆病院開院式
1957年4月1日「原爆医療法」施行
1959年6月13日広島で初の原爆後障害研究会
1965年6月27日胎内被爆小頭症児の親たちが「きのこ会」結成
1965年11月1日厚生省初の被爆者実態調査(1967年11月「国民一般と被爆者に著しい格差はない」と結果発表)
1966年10月15日日本被団協が援護法の要求で「つるパンフ」作成1968年9月1日「被爆者特別措置法」施行
1970年4月15日広島原爆養護ホーム開所
1972年7月2日日本被団協が被爆証人捜しの運動を始める
1976年7月27日石田原爆訴訟で広島地裁が原告勝訴の判決
1980年12月11日原爆被爆者対策基本問題懇談会(7人委)が援護法制定に否定的な意見書
1985年10月3日厚生省が被爆者実態調査で初の死没者調査実施
1994年12月9日「被爆者援護法」成立。「国家補償」は明記せず