【人類の未来に残された核兵器】


 米国が最初の実験と、広島、長崎に使った合わせて3つの原子爆弾だけでは、核兵器の時代は終わりませんでした。

 現実は次々に新しい核兵器が作られ、今まで持っていなかった国が持つようになり、それに対抗して1つずつの核兵器の威力が高まり、互いに持ち合っている核兵器群に打ち勝つためにミサイルの飛距離を増し、命中精度を高め、防御システムを開発し、世界は限りない「核軍拡競争」に突き進んでいきました。

 1発の核爆弾が核分裂の連鎖反応であるように、それは核軍拡の連鎖反応を呼び起こしたといえます。この愚かさに人々が気付くのにさほど時間はかかりませんでしたが、連鎖反応を減速させるのに多くの時間と多くの犠牲が必要でした。しかもまだ私たち人類は、その最初の糸口に手をかけた程度の段階にいるのです。


●戦後の核兵器

 1946年7月1日、米国は太平洋マーシャル群島のビキニ環礁で戦後初の原爆実験をしました。米国の用済みの艦船や旧日本海軍の戦艦など75隻の上空でさく裂させました。実験に同行したUP通信記者は「あたかも数十個の爆弾がことごとく赤紫色に光を発して一時に爆発したかと思われ、続いて先の3倍も激しい2回目の爆発が起こった。セン光と巨大な桃色の煙となって現場から18マイル(29キロ)も隔たったわれわれさえ幻惑させた」と書いています。これが戦後の核軍拡競争の始まりです。

●新たな核保有国

 1949年9月23日、米国のトルーマン大統領は、ソ連の核保有を特別声明で発表しました。「われわれは過去数週間以内に原子爆発が行われた証拠を持っている」というコメントでした。ソ連が実験をしたのは8月29日だったとされています。戦後間もない時期から国連などの場では原子力の国際管理が強調されてきましたが、答えが出る前の核拡散の1撃でした。続いて英国が1952年10月3日、フランスが1960年2月13日、中国が1964年10月16日に核保有国になりました。

●水素爆弾

 1952年11月1日、米国は太平洋エニウェトク環礁で初の水爆実験をしました。

 水爆はウランの核分裂反応で生じる超高温を利用してリチウム、トリチウム、重陽子などに核融合反応を起こさせるもので、その威力は1発で広島、長崎型原爆の 100倍以上です。

 核兵器で世界の主導権を争い、国際政治を動かそうとする「核戦略」は、〈核兵器を持つこと〉から〈威力を競う〉段階に入りました。  米国の水爆保有を追ってソ連は1953年8月、英国は1957年5月、中国は1967年6月、フランスは1968年8月に、また相次いで水爆実験をしました。この時代、核兵器の威力を表す単位として「メガトン」(1メガトン= 100万トン)がひんぱんに使われました。ソ連は1961年10月に、50メガトン級の核実験をしています。

●第五福竜丸の被災

 1954年3月1日、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」(99トン、乗組員23人)が太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で米国の水爆実験の死の灰を浴びました。

 14日に帰港した乗組員2人が原爆症の症状を示し、翌日東京大学付属病院に入院。事件が表面化しました。水揚げしたマグロ、船体、漁具からも放射線が検出されました。

 9月23日には放射線障害で入院していた久保山愛吉無線長が死亡。広島、長崎の被爆者に続く新たな核兵器の犠牲者となりました。当時この近海には多数のマグロ漁船が出漁しており、日本中を不安に陥れました。

 それでも核実験の「死の灰」はやまず、太平洋の島々、米国、ユーラシア大陸、オーストラリアの砂漠の実験場周辺で、次々に核被害者をつくり出していったのです。


核戦争の「道具」

 広島、長崎への核兵器攻撃は、原爆を爆撃機から投下する方法で行われました。核爆弾とそれを運ぶ爆撃機やミサイルが、核戦争を戦うための一番基本的な「道具」です。

 米国は最初、ナチスドイツが持つ前に核兵器を開発しようとしました。つまり、まだ核兵器を持たない国が「やがて持つ可能性への恐怖」に開発の動機があったのです。

 核兵器の出現した段階で、米国の戦略家たちは「核抑止」の戦略を立てます。米国が持つ核兵器への恐怖から、持たない国が戦争をしかけるのを抑止するという考えです。

 しかし米国の核独占は数年で崩れます。価値観や政治体制の違う複数の国が核兵器を持つ時代に、「核抑止」の効果を維持するために、戦略家たちは核戦争の「道具」をより高度に、より多角的に組み立てていこうとしました。

 しかし、それは相手の国にも同じ開発の動機を持たせました。1国が「道具」の水準を上げれば相手も負けまいとし、「可能性への恐怖」も加わって、とめどない核兵器体系の巨大化、核軍拡競争に突き進んでいったのです。

●ミサイル

 核兵器の数を増やし、威力を大きくすると、次の競争はその運搬手段でした。爆撃機は大型化し、さらに長距離を短時間で飛ぶミサイルが開発されました。ミサイルに核兵器の弾頭を装着して飛ばすのです。

 これもまた競争です。遠くの標的に届くように射程を延ばし、命中精度を上げる。複数の核弾頭を同時に打ち込む多弾頭ミサイルをつくる。次々と生まれる開発の動機を満たすのに多くの現代科学が動員されました。

 大型化の一方で、局地的な戦闘でも使えるように小型の核兵器と近距離ミサイル、さらにその中間の核兵器とミサイルが出現しました。「道具」はこの段階で核兵器と運搬手段が一体になり、「戦略核」「戦域核」「戦術核」と言われるようになります。それは結局、どんな戦争でも核兵器が使われる可能性を高めました。

・・・戦略核/戦域核/戦術核・・・

 「戦略核」は遠い距離にある敵対する国を攻撃し、戦争の勝敗を決める戦略上の目標を破壊する兵器。大陸間弾道ミサイル(ICBM)、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)、戦略爆撃機から構成されています。「戦域核」は、「戦略核」と「戦術核(戦場とその周りの限定された目標を攻撃する)」の中間の兵器で、中距離核戦力(INF)と呼ばれています。

●核戦略の海

 「核抑止」の考え方は、常に相手を上回る核攻撃力で報復する能力を持っていることを前提にしたものでした。このためにICBMの発射装置を地下構造物にし、発射光に丈夫なふたをする仕掛けも造りました。その仕掛けを海の中に展開したのが、SLBMです。

 そのために長時間潜航できる原子力潜水艦が造られました。ポラリス型原子力潜水艦は射程 400キロ前後の核ミサイル十数基を積んで航行し、水中からにらみをきかすようになりました。

 さらに多数の爆撃機を積んだ原子力航空母艦が建造され、洋上の動く核攻撃基地として世界の海に展開しました。長距離爆撃機、原潜、原子力空母は相互に関連する戦力として組み立てられ、さらに核魚雷を備えた原潜で相手の国の原潜を攻撃するなどの兵器も取り込んだ核戦争システムへ進んでいきました。

●宇宙からも

 核戦力のネットワークの広がりは結果として、相手の動向にいつも目を光らせておく仕組みを求めました。核戦力同士の大掛かりなにらみ合いの現場として宇宙が登場します。人工衛星による監視を徹底し、宇宙と航空と地上と海洋を動員して反撃する態勢です。

 米国の「戦域ミサイル防衛」構想の場合は、宇宙に打ち上げたセンサーまたは空中警戒管制機で、敵のミサイルを感知して地上に情報を伝え、侵入するミサイルを迎撃ミサイルで打ち落とす仕掛けです。

 米国はより大きな戦略防衛構想(SDI)も考えましたが、1993年に放棄しています。敵のレーダー網をかいくぐる見えない爆撃機や核巡航ミサイルなど、直接の核技術だけでなく、航空宇宙、情報技術などを総動員した核攻撃のシナリオには身震いするほかありません。


核開発競争の果てに

 核兵器のツメを強大にして核攻撃を抑止し、平和を維持するという核戦略には、いくつかの無理がありました。その考えは(1)核兵器を持つ国の数が多くなると危うくなる(2)絶えず他の国より水準の高い核軍備を迫られる(3)世界中に核基地や原子力艦船の基地が必要になる(4)それを支えるために多大な財政支出を伴う、ことを覚悟しなければなりません。

 さらに核軍備を拡大するごとに核実験をし、地球環境を汚染し、無関係な人々を放射線被害にさらす結果になりました。また米国では開発のために秘密の人体実験が行われたことも明るみに出ています。その被害者は、無意味な核戦争を先取りさせられたといえます。今問われているのは、「核兵器に頼る国際政治」がいつまで続くかではなく、いつ終わりにするか、なのです。

●部分核停条約

 1962年は、米ソが競って核実験をした年でした。死の灰をまき散らす地上、空中核爆発の多発、大国のとめどない軍拡の動きは、国際世論の批判を受けました。

 核軍備管理を唱える一方で、環境を汚し続けてきた米、英、ソ三国は、1963年8月に「部分的核実験停止条約」に調印。大気圏の核実験を禁止しました。世界の民衆の願いは核兵器廃絶であり、核実験の全面禁止でしたが、実らず、地下核実験は残りました。

 核保有国の非核保有国への核兵器提供を禁止する核拡散防止条約(NPT)は、1968年7月に調印され、1970年3月に発効しました。しかし、核保有国は核兵器開発のたびに核実験を繰り返し、核実験の被害を出し続けたのです。

●核シェルター

 1970〜80年代に世界の各地で核シェルターをつくることが流行しました。放射線防護措置をした地下施設、つまり核戦争用の防空ごうです。そこには「核戦争に自分だけは生き残る」という発想があったようです。

 そのころ「民間防衛」という言葉もよく使われました。民間防衛は核戦争に限りませんが、実際に核戦争が起きたときに起きる広い範囲の社会的機能の破壊、残留放射能に包まれての大規模な自然破壊について考えてみるよりも、自分だけの「孤独な生き残り」に関心を抱いた人もいたのです。

 その間にも世界の核兵器は増え続け、1980年代には広島型原爆3万5000発分と言われるまでの量となり、戦後の核実験は1985年までに、確認されただけで1400回を超したのです。


「核兵器使用 !?」   世界が緊張した3回の危機
 広島、長崎のあとも、核兵器が使用される危機が少なくとも3回ありました。

■朝鮮戦争(1950年6月25日〜1953年7月27日)

 ▽第2次世界大戦後の米ソの対立を背景に、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が衝突。それぞれが国連軍、中国義勇軍の支援を受けて戦いましたが、3年間の争いの後、停戦協定が調印されました。

 ▽50年7月16日、浜井広島市長「われわれは米国が朝鮮で原爆を使用することに、声を大にして反対する。今後世界のどこにおいても、原爆使用は絶対に許されるべきではない」(パリで、ルモンド紙記者に)

 ▽50年11月30日、トルーマン米大統領「米国の持つ最大の武器を使うことは、今までにも積極的に考慮された。しかし、原爆は軍隊のみならず、一般市民に対し恐るべき威力を有するものなので、これを使う必要がないことを心から熱望している」(記者会見)

■ベトナム戦争(1960年12月20日〜1975年4月30日)

 ▽フランスの植民地支配の後、米国は南ベトナム政府を応援し、ベトナムの内戦に介入しました。北ベトナム爆撃(当時「北爆」と呼ばれた)を繰り返し、ベトナム全土に「ジェノサイド」と呼ばれる皆殺し作戦を展開しました。だがベトナム解放勢力の反撃と国際世論の批判を受け、米国は50万人を超す兵力と近代兵器を投入しながらついにベトナムから敗退しました。

■キューバ危機(1962年10月22日〜10月28日)

 ▽10月22日、米国のケネディ大統領は、ソ連がキューバにミサイル基地を建設中と発表し、キューバを海上封鎖した。

 ▽ケネディ大統領の全米向け発表「一連の攻撃的ミサイル発射施設がキューバに運ばれているとの動かしがたい確証を得た。米国自身および西半球全体の安全を守るためにこれらの措置が必要になった」

 ▽10月28日、ソ連のフルシチョフ首相がキューバからミサイル撤去を命令。

 ※この事件をきっかけに米ソ両国は、偶発的な核戦争を避けるためのホットライン(緊急通信連絡線)を開設しました。


世界核国の核実験(1945年7月―96年1月)
 米国        1029回
 旧ソ連(ロシア)  715回
 英国         45回
 フランス      210回
 中国         43回
 インド         1回
(1955年5月14日付、8月18日付、96年1月31日付の中国新聞による)

恐怖のもとの均衡

 1985年11月19日、スイスのジュネーブで、6年半ぶりに米ソ首脳会談が始まりました。米国のレーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長の初の顔合わせ。2日間の会談を終えた2人は共同声明で、両国の対話継続、近い将来の相互訪問を打ち出しました。そして21日、レーガン大統領は議会に「攻撃核兵器の50%削減で認識が一致した」と報告しました。

 緊張緩和が訪れ、米ソ核軍縮が始まった時、時代は大きな転機を迎えていました。ソ連邦そのものが社会主義体制をもう維持できなくなっていました。

 89年12月、イタリアのマルタでブッシュ米大統領とゴルバチョフ・ソ連大統領が東西冷戦の終結を宣言した後、東ヨーロッパの民主化の流れの中でソ連邦も崩壊。旧ソ連の核戦力と引き金になる「核の発射ボタン」はロシアのエリツィン大統領に引き継がれました。

 しかし冷戦の終わりは、新たな不安定の始まりでした。世界の各地で内乱や民族紛争、宗教的な理由での紛争が続発しました。核拡散防止条約(NPT)に未加盟の国の核保有疑惑も取りざたされました。1993年以来の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核開発疑惑やミサイル保有はNPT体制の維持にも影響を与える国際問題となりました。こうした「不安定と核兵器」の組み合わせは、いま世界が抱えている大きな難題です。

●核の冬

 核戦争が起きたら、核爆発や大火災で大気中に噴き上げられた大量の煙や粉塵が太陽光をさえぎり、地球が極度に寒冷化するという予測があります。それが「核の冬」です。

 〈核爆発の破壊と大火災の後、地上に氷点下25度の核の冬が訪れ、植物は枯れ、家畜も全滅、生き残った人々は飢えの恐怖に直面する〉

 これがシュミレーションの結果です。

 1983年に米国の天文学者カール・セーガン博士らが提唱、研究が盛んになりました。85年には国際学術連合会議(ICSU)が「核戦争による環境への影響」と題する研究報告を発表。核の冬による寒冷化や食料不足で、世界中で10億〜40億人が死亡すると指摘しました。

 1979年に米国技術評価局は上院外交委員会の求めに対し、「核戦争の効果」という報告書を出しています。前提条件は「米ソ核戦争が起こったら…」。ソ連から米国の大都市に1メガトンの核弾頭が打ち込まれたら、どれだけ生き残りが可能かを専門家たちが予測していますが、その「生き残り」の実態は悲惨なものです。

 しかし核戦争に関して最も確実なことは広島、長崎で「実際に起きたこと」です。予測通りでも、予測以上でも、核戦争に「生き残り」はありません。核戦争の可能性を「0」にする努力こそが「生き残り」の方法です。


残された核兵器

 米国と旧ソ連、これを引き継いだ米国とロシアの核軍縮交渉が、戦略核、戦域核の削減で一致し、世界は核軍縮の糸口をつかんだかに見えます。

 しかし核兵器はあまりに過剰につくられ過ぎました。まだ人類を殺し尽くすのに十分な核兵器が存在しています。削減合意に基づく核弾頭やミサイルの解体も、膨大な財政支出を伴うものです。さらに近年、ロシアの核物質が国外に流出したという情報も伝えられています。核兵器の保有が疑われている国もあります。「核兵器をなくす」という世界全体の合意と現実的な努力が開始されなければ、人類が本当の核軍縮に向かったとはいえないのです。

●潜在核保有国

 米国、イギリス、ロシア、中国、フランスの5つの核保有国のほかに、「核兵器をすでに持っている」と疑われる国、潜在的に保有可能とみられる国があります。それは多くの場合、確認でなく、「推定」「分析」の形で私たちに知らされます。例えば、

 1993年2月24日、米国中央情報局(CIA)は上院にロシア外務省資料を提出し、「イスラエル、パキスタン、インドは既に核兵器を持ち、南アフリカ、北朝鮮は核兵器製造用核物質を保有している」との分析を示しました。

 同24日、国際原子力機関(IAEA)の理事会は朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)に、核疑惑が持たれている寧辺の2施設への特別査察を1カ月以内に受け入れるよう求める緊急決議をしました。

 続いて3月1日、ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が「北朝鮮は1995年までに4〜7個の核兵器を製造できるプルトニウムを蓄積することが可能」と報告。「イスラエルは既に核弾頭 100個分、インドは60個分、パキスタンは10個分の核物質を保有している」との推定を明らかにしました。

 近年の新聞をよく注意して見ると、こんな報道がひんぱんに行われています。これらの事実は確認が必要ですが、世界がまだ、核兵器に関して「安全」でないことだけは確かです。


■終末時計■

 核戦争による地球破滅の時間を午前零時に設定、分針の一進一退で核の危険を世界に警告してきた。米国の科学誌ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツが1947年以来、毎号表紙に掲載。「運命の日の時計」とも呼ばれる。

 
■核開発の歴史と終末時計■
1945 米=アラモゴードで最初の原爆実験
米=広島、長崎に原爆投下
1946 米=ビキニ環礁で太平洋核実験開始
1949 ソ=初の原爆実験
1952 英=初の原爆実験 米=初の水爆実験
1953 ソ=初の水爆実験
1954 米=初の原潜ノーチラス号進水
米=水爆実験で、マーシャル諸島住民と第五福竜丸の乗組員が被災
1955 米=長距離爆撃機B52就役
ソ=長距離爆撃機バイソン就役
1957 英=初の水爆実験
ソ=ICBM発射実験
ソ=初の人工衛星打ち上げ
1958 米=ICBM「アトラス」試射
1959 《南極条約締結→軍事・核利用禁止》
1960 仏=初の原爆実験
米=ポラリスミサイル水中発射
1963 《米英ソ=部分的核実験停止条約調印》 
1964 中=初の原爆実験
1965 米=長距離ミサイル「ミニットマンU」就役
1967 中=初の水爆実験
1968 《核拡散防止条約採択》
仏=初の水爆実験
米=個別誘導多核弾頭(MIRV)の初実験
1971 《海底条約調印→海底の核兵器禁止》
1972 《米ソ=戦略兵器制限暫定協定(SALTT)調印》
1974 インド=原爆実験
1977 ソ=欧州にSS20ミサイル配備
1979 《米ソ=第2次戦略兵器制限条約(SALTU)調印》
NATO=米中距離核戦力配備を決定
1980 中=初のICBM実験
1981 《米ソ=欧州中距離核(INF)制限交渉を開始》
1982 《米ソ=戦略核削減交渉(START)開始》
1983 米=パーシングUを西独へ配備
1984 米=核つき巡航ミサイル「トマホーク」の太平洋艦隊配備を声明
1985 《米ソ=戦略核削減のための再交渉(START2)開始》
1987 《米ソ=INF全廃条約調印》
1991 米=湾岸戦争でトマホークを実戦使用
《米ロ=START調印》
1993 《米ロ=START2調印》
1995 核拡散、中・仏核実験
【START2の合意】
 米ロは2003年までに、戦略核を2段階に分けて現有の3分の1(3000〜3500発)に削減。先制核攻撃の手段になりやすい地上発射個別誘導多核弾頭(MIRV)化ICBMを全廃。