中国新聞

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21世紀 核時代 負の遺産


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 対策なく 住民に不信感

 チェリャビンスク市からエカテリンブルグ市へ向かう幹線道路を北へ約百キロ。そこから右へ折れ、未舗装の悪路をしばらく走って、タタール系ロシア人が住む一つの村に着いた。

 人口六百四十人のカラボルカ村。道ばたでまき割りをする中年男性に「四十四年前の放射能汚染事故のことを知ってる?」と尋ねると、「ああ、村の者は忘れてないよ。二週間前にも、国に被害補償を求める村民集会があったばかりだ」と、即座に答えが返ってきた。

44年前に起きたマヤーク核施設での、タンク爆発事故の様子を語るスナガート・ガイセニンさん(右)「あの時、放射能雲と分かっていたら、今ごろここには住んでいなかったよ」(カラボルカ村)

 その放射能汚染事故とは、一九五七年九月二十九日、マヤーク核施設にある放射性廃棄物の貯蔵タンクが爆発。中にあった七十〜八十トンの高レベル廃棄物が爆発の勢いで上空千メートルまで舞い上がって風下の北東に流れ、広範な地域を汚染した。

 大気中に飛び出した放射能量は、チェルノブイリ原発事故時の四〇%に当たる約七十四万テラ(10の12乗=一兆)ベクレル。うち九〇%がマヤーク施設内に落下し、残り約七万四千テラベクレルが村や畑、川や湖、森などに降り注いだ。 


 マヤークから北東へ約五十キロのカラボルカ村も高汚染地域に含まれていた。作業中の男性から「当時のことをよく知っている者がいる」と紹介され、近くに住むスナガート・ガイセニンさん(69)を訪ねた。事故後、除染作業にも加わったという彼は、その日の出来事を克明に記憶していた。

 「コルホーズ(ソ連時代の集団農場)でジャガイモを収穫していた時だった。午後の晴れた空に、急にマヤークの方角から黒い雲ようなものが現れて、こっちへ向いて流れてきた。『あれは何だ』と、仕事の手を休めて周りの者と騒いでいるうちに、頭の上を煙のように流れていった」

 放射能事故を知らないガイセニンさんらは、夕方までふだん通り仕事を続けた。

 「確か翌日だった。兵隊らがトラックでやって来て、収穫途中のジャガイモを全部捨てろという。『どうしてだ』って聞いたら、へらへら笑うだけで『命令だ』の一言。畑にあった家畜用の干し草も、上の部分の三十センチは全部埋めさせられたよ」

 事故原因は、放射性物質による核分裂反応でタンク内の温度が上昇しながら、そのタンクを周りから冷やす冷却装置が働かず、暴発したものだ。

 ストロンチウム90などによる風下地区の汚染は距離にして約三百キロ、面積にして二万三千平方キロメートル以上に及んだ。マヤーク敷地外の最汚染地域の被曝(ばく)線量は、毎時六ミリシーベルト。その場に一時間いるだけで、一般人の年間線量限度(一ミリシーベルト)の六倍にもなる強さだった。

 この事故でひどく汚染された地域の住民一万人余が、二年以内に強制的に避難させられた。タタール系の人たちが住むカラボルカ村も含まれているはずだった。だが、実際に避難したのは、この村から約三キロ離れた幹線道路沿いのロシア系住民が暮らす同じ名前のカラボルカ村だけだった。

 残されたタタール系住民の農場は、一部が使用禁止になった。しかし、村の人たちは放射能汚染について何も知らされぬまま、野菜やミルクを自給し、魚やキノコも近くの川や湖、森からとった。

 村の住民が放射能汚染について知るのは、ソ連崩壊直後の九二年。避難計画があったことも、やがて知った。

 「少数民族のタタール人が人体実験のために汚染地に残された」「がんで死んだ者や、慢性病患者が多いのはここに残されたからだ」。…。村人から怒りの声が上がった。

 ガイセニンさんらは、三年前からロシア政府に、カラボルカ村を汚染地域に認定し、補償金を出すように要求を続けている。だが、その見通しは立っていない。



 マヤーク核施設は六七年にも、約二十二テラベクレル相当の放射性物質を大気中に放出する事故を起こした。この事故で千八百平方キロメートル以上の農地などを汚染。六十三の町や村の約四万一千人に影響を与えた。

 「世界最悪の放射能汚染湖」とされる敷地内のカラチャイ湖が乾燥し、四〜五月の強い風にあおられて、表面の汚泥が飛び散ったためだ。

 広さ〇・五一平方キロメートル、深さ数メートル。その小さな湖に五一年から放射性廃液を投棄。放射能量は、半減期三十年のセシウム137などを中心に四百五十万テラベクレル以上。チェルノブイリ原発事故時の二・四倍に当たる。

 カラチャイ湖は、六七年の事故を契機に表面を石や土などで埋め、今では表面積はわずか〇・一五平方キロメートル。が、今も放射性廃液の投棄が続く。

 「われわれが一番心配しているのは地下水の汚染。すでにマヤークの敷地外に広がっているとも言われるけど、本当のところは分からない」

 チェリャビンスク州アルガヤッシュ地区の衛生疫病監視委員会事務所で会ったベニアミヌ・セリャブリャコフ委員長(61)は、嘆息交じりで言ったものだ。同地区はマヤーク核施設から南へ約三十キロ。八十七の村に四万五千人の人口を抱える。

 「この自然が放射能で汚染されても自分たちの手で調査できない」と嘆くベニアミヌ・セリャブリャコフさん(アルガヤッシュ地区)

 「ロシアの科学者の中には、放射能で汚染された地下水が年に三百メートルの速さで広がっていると警告する者もいる。でも、マヤークの当局者や州の本庁役人は『心配は要らない』と言うばかり。煙突からのエアゾールを含め、自分たちで測定して確かめたいけど、その器具も金もない」とセリャブリャコフさん。

 監視委員会にはガンマ線を測る測定器しかない。州政府に配分される国家予算から、ベータ線やアルファ線用の測定器を購入したり、水質検査などが可能な実験室をつくるよう要請しているが、「マヤークの安全確保が先決」と、予算は優先的にマヤーク核施設に回されるという。

 そのマヤーク。カラチャイ湖のほかにも放射性廃液をためている湖が数カ所あるが、いずれも満杯状態にあると言われる。六十個、あるいはそれ以上あると見られる高レベル廃棄物用タンク(一個の大きさ推定約二万立方メートル)には、約二千二十万テラベクレルから三千六百万テラベクレル近い放射性廃液がためられているとされる。

 操業過程で汚染されたさまざな器具や衣類などの固形廃棄物も膨大な量に達し、敷地内の二百カ所以上に埋めらている。



 九〇年には軍事用プルトニウムの生産は終わった。しかし、その後も七〇年代と八〇年代に造られた二つの原子炉で兵器用のトリチウム、民生用のコバルト60などアイソトープの生産が続く。原子力潜水艦や原発などから出る使用済み核燃料の再処理も行っている。こうした生産活動から生まれる多量の放射性廃液が、今もなお施設内の湖に捨てられている。
「マヤーク核施設の危険な現状を世界の人々にもっと知ってほしい」と話すナターリ・ミロノーバさん(チェリャビンスク市) 

 マヤーク核施設の監視を続けるチェリャビンスク市の非政府組織「核安全運動(MNS)」などは、現状に警告を発し続けている。「マヤーク敷地内にはチェルノブイリ事故時に放出された放射能量の二十〜三十倍の膨大な量の廃棄物が不安定な状態で貯蔵されている。一つ間違えば、大事故汚染につながってしまう」。MNSの事務所で会ったナターリ・ミロノーバ委員長(55)は、厳しい表情で言った。そして彼女は、憤りを抑えかねるように続けた。

 「マヤークは、これまでに多くのヒバクシャをつくり、汚染地帯を広げてきた。それなのに外国から使用済み核燃料を持ち込むとか、湖に貯めた低レベル廃液を冷却水に使って原発を造るなどという政府の計画はもってのほか。今ある放射性物質をどう安全に管理するか、その対策さえ立っていないのだから…」

 ミロノーバさんら地元住民のマヤーク当局や、核政策を決めるロシア政府への不信は根深い。

 
マヤーク核施設



膨大な廃液 今なお投棄
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≪隠されたウラルの核惨事≫

 1957年のマヤーク核施設で起きたタンク爆発事故は、86年のチェルノブイリ原発事故が発生するまで、旧ソ連で最大の放射能汚染事故だった。が、ソ連ではすべてが秘密にされた。

 核開発でソ連をリードする米国の中央情報局(CIA)は、59年にこの事故を知った。しかし、57年に英国ウィンズケール(現セラフィールド)で起きた軍事用原子炉の大事故や米国内の核工場での事故などもあり、「自国の核開発の足かせになっては」と、米政府も秘密を保った。

 「ウラルの核惨事」「キシュティムの事故」として世界に知られるようになったのは76年。英国に亡命したソ連の生物学者ジョレス・メドベージェフ博士が、科学雑誌に暴露したのがきっかけである。ソ連政府は89年、ペレストロイカが進む中で、ようやく正式に事故を認めた。

 事故では従業員や住民被害のほかに、マヤーク敷地内の除染作業などに従事した、全国各地から招集の兵士2万人以上も被曝した。
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