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汚染エリア


[パデューカ核施設]

 正式名称は「パデューカ・ガス分離工場」。1950年10月、ト ルーマン政権は「兵器用濃縮ウラン製造の倍増」を目指して、従来 のオークリッジ核施設に加え、ケンタッキー州パデューカ市の西約 15キロにあった通常兵器工場を核施設に転換することを決定した。

 51年1月、約14平方キロの敷地のうち約3平方キロを使い、濃縮 工場などの建設に着手。52年末に一部が完成し操業を始めた。初期 の契約企業には、オークリッジ核施設で濃縮ウランの製造経験のあ るカーバイド化学社(現ユニオン・カーバイド社)が選ばれた。

 53年から76年までにハンフォード核施設から取り寄せた使用済み ウラン核燃料は、10万3000トン以上。60年代半ばからは、兵器目 的の濃縮ウランの製造から、急激に増加する原発の核燃料使用へと 移行した。92年のエネルギー政策法により、民間移行のための「米 国エネルギー社」(USEC)が設立された。以来、施設はエネル ギー省に属しながら、98年に完全民営化されたUSECが製造に当 たる。

 これまでに100万トン以上の濃縮ウランを製造。50年間の施設内 外の汚染処理管理は、エネルギー省が担当している。現在の労働力 は約2000人。

 
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「われわれ労働者は消耗品扱いだった」―自宅の庭で妻のビビア ンさんと核施設で働いていた当時について語り合うアルフレッド・ パケットさん(ケンタッキー州ケビル市)


中国新聞

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21世紀核時代 負の遺産
 [27]
 
パデューカ核施設 上

 原子力の街 揺らぐ誇り ■ 労働者軽視 汚染明るみ
 
 ケンタッキー州西部の小都市パデューカ市。イリノイ州との州境 をなすオハイオ川に面した人口約二万七千人の中心部から西へ車を 走らせること約二十分、濃縮ウランを製造するパデューカ核施設に 近づくと、辺りを覆うように白い蒸気が猛然と噴き出していた。

夕日を浴びながら、パデューカ核施設からすさまじい勢いで立ち 上る蒸気。煙突などからこれまでに多くの放射性物質が大気中に放 出された(ケンタッキー州パデューカ市郊外)
  
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「放射性物質や化学物質による汚染除去はほとんど進んでいな い」と強調するマーク・ダーナムさん(左)とクリスティ・ハンセンさ ん(パデューカ核施設の敷地そば)
 「五基の冷却塔から噴き上げているのだ。煙突からは煙もね。二 十四時間、年中この状態だよ」。ハンドルを握る環境活動家のマー ク・ダーナムさん(49)は、立ち上る蒸気を見つめながら、いまいま しそうに言った。

 パートナーのクリスティ・ハンセンさん(49)が後部席から続け た。「わが家はここから北東へ直線で十五マイル(二十四キロ)。イリ ノイ州南部は風下に当たるので、安心できないのよ」

 大学時代に知り合った二人は一九八〇年、イリノイ州ブルックポ ート市の森の中に十三エーカー(約五万三千平方メートル)の土地 を購入して移り住んだ。野菜づくりなどに取り組む傍ら、九六年か ら「エネルギー省市民助言委員会(十七人)」のメンバーとして濃 縮工場が生み出した膨大な汚染問題の責任を追及している。

 そのパデューカ核施設は、ソ連との冷戦が激化した五一年に「兵 器用濃縮ウラン235の増産」を目的に建設され、五二年に稼働し た。濃縮方法は、広島型原爆を生み出したオークリッジ核施設(テ ネシー州)の「K―25」工場と同じガス分離方式を採用している。

 産業の乏しいこの地域では、当時も今も最大の雇用の機会を提供 する。「原子力の都市」と絵はがきなどでPRされ、市民も誇りに してきた。

 「しかし、その誇りは今揺らぎ始めているよ。九九年になって、 核施設の内部資料などから、これまでに何千人という労働者がプル トニウムで被曝したり、工場の現場やあちこちの敷地、カ フェテリアやロッカー室までが放射性物質で汚染されていたことが 明るみに出てきたからだ」

 ダーナムさんは、敷地そばの公道をゆっくりと巡りながら言っ た。  

 



 核兵器や原発用の濃縮ウラン235は、ウラン鉱山で採掘された 天然ウランを精製し、いくつもの過程を経て製造される。パデュー カ核施設では、従来の「イエローケーキ」と呼ばれる酸化ウランに 代わり、七〇年代後半からは六フッ化ウランを他の施設から受け取 り、その後の濃縮工程を担当する。

 ところが、原子力委員会(現エネルギー省)と契約会社は五三年 以来、通常のルート以外に、兵器用プルトニウムを製造していたハ ンフォード核施設(ワシントン州)から使用済み核燃料を持ち込 み、リサイクルすることで残りのウラン235を再び取り出そうと した。

 「知っての通り、使用済みのウラン核燃料にはプルトニウムや他 の放射性物質が含まれている。特に毒性の強いプルトニウムは、た とえ微量でも体内に吸入すると、がんなどの病気を誘発して非常に 危険だ。なのにその事実は労働者や住民に一切秘密にして、七〇年 代半ばまでリサイクルを続けてきたんだ」とダーナムさん。

 二人の説明によると、九九年夏、放射線防護が専門の保健物理担 当者ら従業員三人が「調査に基づくわれわれの汚染データが、あた かも法に準じているかのように不当に改ざんされている」と、会社 を相手に提訴。マスコミなどの報道もあり、エネルギー省も独自の 調査に動かざるを得なくなったという。

 その調査結果は二〇〇〇年二月までに「過去の実態」と「現状」 に分けてそれぞれリポートにまとめられた。

 リポートには、従業員が濃縮工場での作業中にプルトニウム汚染 物質などで被曝した可能性や、カフェテリアなどでも放射性物質や 化学物質が確認されたことが記述されている。九〇年までに煙突か らは「推定六万キロのウランが放出されただろう」とも指摘してい る。

 「でも、私たちはそこに書かれている数字など半分も信じていな い。だって、人体や環境への影響については何もかもあいまいなん だから…」と、ハンセンさんは、強い不満を示した。

 敷地の周りにめぐらされた金網のフェンスには、いたる所に放射 性物質が地下に埋められている標識が掲げられていた。そしてどこ にいても目に入る劣化ウラン(U238)を収めた膨大な数のシリ ンダー…。

 「ウランの濃縮過程で得られる高レベル放射性同位元素のウラン 235は1%にも満たない。残りのほとんどすべては、低レベル放 射性廃棄物のウラン238、つまり劣化ウランというわけさ。ここ の施設だけで約四万本もある」

 
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放射性物質が地下に埋まっている可能性のあるエリアを示す掲示 板(左側)。フェンスの外側にも放射性物質があちこちに埋設され ている(パデューカ核施設)
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公道近くの敷地内に放置された劣化ウラン貯蔵シリンダー。さび たシリンダーが破損し、土壌を汚染することもしばしばである(パ デューカ核施設)
  
 ダーナムさんの説明を聞きながら、先に取材したオークリッジ核 施設「K―25」工場の戸外に放置されていたさびの目立つシリンダ ーを思い出した。

 米国内の劣化ウラン貯蔵シリンダーは、オハイオ州パイクトン市 にあるもう一つのウラン濃縮施設と合わせ三カ所で保管。内容量約 一一トンのシリンダーの合計数は約六万八千本、蓄積量は約七十七万 トンにも達する。

 その一部は、比重の重い特性を生かして、頑丈な戦車などを貫通 する「劣化ウラン弾」として利用。米軍は九一年のイラクに対する 湾岸戦争や九九年のコソボ紛争などで使用した。




 ダーナムさんら二人の案内で核施設周辺の一部を視察した後、施 設の西約一・六キロのケビル市に住む元従業員のアルフレッド・パ ケットさん(75)を自宅に訪ねた。  

 「広島から? 実はね…」と、ソファに腰を下ろしたパケットさ んは、遠い記憶を呼び起こすように目を細めて言った。「私は第二 次世界大戦中、海軍の兵員輸送部隊にいてね。四五年九月には長崎 まで兵士を運んで二週間滞在した。太い鉄柱が折れ曲がった造船所 の建物など、原爆による破壊のすさまじさは今でも忘れられない よ」

 テラキー先住民のパケットさんは、穏やかな口調でひとしきり長 崎での体験を語った。

 五二年に除隊後、職を求めてシカゴへ。パデューカに建設された 核施設に働き口があると知って、結婚したばかりの妻のビビアンさ ん(70)を伴って故郷に戻り、五三年四月に職を得た。

 「ウラン濃縮工場では、配管などの維持管理に当たった。後に分 かったことだが、『黒いウラン』と呼ばれていたドラム缶入りの物 質は、ハンフォードから届いていたんだ。経営者はわれわれに『ま ったく無害だ。食べても大丈夫』と言っていた」

 当時、労働者は危険度に応じてより高い給与が支払われた。エネ ルギー省が調査したリポートには、六〇年三月の当局の手紙に触れ ながら「管理者は三百人の健康診断を必要と認めながら、それをや ると危険手当を要求されるとの恐れから躊躇(ちゅうちょ)してい た」とある。

 パケットさんは六〇年に、配管取り換え作業中に放射性蒸気を大 量に浴びて、首回りに大やけどを負った。核施設内の病院で治療を 受けたが、夕方になっても吐き気は止まらなかったという。

 だが、彼の上司からは「明日も出勤するように。でなければほか の者を探す」と通告された。

 無言のまま包帯姿で帰宅した夫にビビアンさんは、寝かせる以外 何もできなかった。「とにかく翌朝もまだ何も食べられないし、仕 事を休むように強く言ったけど『運転はできるから』と出かけてし まった」と彼女は振り返る。

 出勤したパケットさんは、その日は一日中病院のベッドで寝てい た。事故なしで操業を続けると、原子力委員会から契約会社に「ボ ーナス」が支払われる。「その記録を残すのが目的だった」と言う のだ。  
 



 六〇年代を迎えるころには、パケットさんを含めすでに多くの労 働者が気管支障害や慢性疲労、内臓疾患などの体調不良を訴えてい た。組合役員だった彼は、会社が責任を持って作業着を洗ったり、 危険な職場環境を改善するように経営者に要求を突きつけていた。

 「私はやけどをする前から『反体制派だ』『共産主義者だ』と嫌 がらせを受けていた。やけどをしてからは『ホット・リスト』に加 えられ、放射性物質を扱わない別の職場に回された。そこでは仕事 は何も与えられなかった。『トイレ以外に部屋から出るな。立った ままでいろ』。それが命令だった」

 ほぼ二年間、そんな状態が続いた。「頭が狂いそうなほどの退屈 さ」に耐えかねた彼は、六二年に退職。すでに購入していた約一・ 三平方キロの土地で、牛百頭を飼い、トウモロコシや大豆などをビ ビアンさんとともに育てた。しかし十年後に心臓発作を起こしてか らは、農業もできなくなり、土地はリースしているという。

 「すでに当時の同僚の多くはがんなどで死亡した。八〇年にがん で亡くなったジョー・ハーディングという親しくしていた同僚は、 百五十人以上の死亡者リストを残して死んでいったよ。私ももう少 し長く現場で働いていたら、今ごろ生きてはいなかったろう…」

 憤りをうちに包み込んだパケットさんの三時間に及ぶ体験談。彼 の証言から当時の契約企業の従業員への対応が透けて見えてくるよ うだった。

  












































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Negative legacy of nuclear age