「孫育てのとき」

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第3部 日本に暮らして

3.3歳児神話・ドイツ −「母親は家庭で」に葛藤

仕事・しつけめぐり対立


話し合い 両立の道

 春風が吹き抜ける広島市安佐南区の西風新都。市立大教授のウルリケ・ベールさん(43)の自宅に四月上旬、故国ドイツから母ビルトラウト・ベールさん(72)が五年ぶりにやって来た。「ビルコンメン(ようこそ)!」。リビングの大きな窓に孫の小学二年杜匂(とにお)君(8)と裕也君(5)の兄弟が書いた歓迎の張り紙を見つけ、おばあちゃんの顔がほころんだ。

 ウルリケさんは一九九五年に着任し、二年後に同僚の仲重人さん(50)と結婚した。母は空路はるばる訪れ、長男の出産に立ち会い、二男のときも家事を手伝ってくれた。心強い味方だ。

 「でも実は、母とは、ついこの間までけんかばかりしていたのよ」とウルリケさん。いさかいの種は子育て、それも三歳までの接し方に母はこだわった。乳幼児のうちから子どもたちをベビーシッターに預けて大学の職場に戻ったこと、食事中に席を立つなどしつけが不十分なこと…。

 「三歳児神話」。母国ドイツでは「三歳になるまでは、子どもはいつも家庭で母親が育てないと成長に悪影響を及ぼす」という考え方が根強い。十八世紀後半に資本主義を導入したヨーロッパで、「男は仕事、女は家庭」式の性別役割分業とともに広まった「神話」だという。日本では高度成長期の一九六〇年代、欧米社会に「追いつけ、追い越せ」と母子関係にも着目し、「神話」が育児書やテレビ番組などから浸透した。

    ◇

 広島文教女子大の吉田あけみ助教授(家族社会学)は「育児を一身に担う『専業お母さん』が増えれば男性を会社人間にでき、保育所の福祉予算も減らせる。当時の国策にすぎず、科学的な根拠はない」と指摘する。厚生労働省はもう十年前、「『三歳児神話』に合理的な根拠はない」とした。

 ウルリケさんは女性史の研究者だ。「神話」がどれだけ女性の社会参加を妨げてきたかを知っているのに、「せめて三歳までは自宅で育児しなければ」との思いにとらわれていた。「葛藤(かっとう)を感じたけれど、妊娠中に読んだ育児書や、専業主婦として私と妹を育て上げた母の影響が大きかった」

    ◇

 しかし、共働きでもあるし職場復帰にベビーシッターは欠かせない。自分の思いをシッターに伝えるため、手料理を食べさせる▽砂糖と乳製品は使わない▽毎日、外遊びをさせるなどの採用条件を付けた。

 それでも母は顔をしかめ、心配した。「三歳にもならないのに母親と一緒にいられないなんて、かわいそう」。だが、夫の子煩悩ぶりや杜匂君が「日本のおばあちゃん」と慕うシッターの人柄を話し聞かせるうちに、理解してくれた。

 育児と仕事を両立させたいと考え、懸命に頑張っている娘。ほだされた母は「好きな仕事をあきらめさせるのは、娘にも孫にもよくないと思い始めたんです」。ただ、しつけの徹底だけは譲れなかった。食事マナー、早寝早起きなどができていない。「ルールはきちんと守らせなさい」。注意するたび、険悪な空気になった。

 「自分が疲れていると、眠らせる時間もつい遅くなるの。母にしかられるたびに自分にイライラした」とウルリケさん。「でもね、もう口を出さないことにしたんです」とビルトラウトさん。「かわいい孫と一緒に過ごせる貴重な時間。親子げんかで費やすなんてもったいない。娘なりに考えているみたいだし」。娘の腕の中で眠ってしまった裕也君に優しくほほ笑んだ。(梨本嘉也)

2006.5.1