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第3部 被爆地とABCC
2. 新生児調査 「目的知らず」 米に報告2007.06.07

 米国が被爆地広島に設けた原爆傷害調査委員会(ABCC)は、発足翌年の一九四八年から六年間、大がかりな 新生児調査に取り組んだ。被爆者の子に遺伝的影響が生じるのかどうか―。今も未解明のテーマにいち早く取り組 んだこと自体が、原爆投下国の並々ならぬ関心の高さをうかがわせる。

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 「出産異常を恐れる人は確かに多かった。徐々に『大丈夫そう』と分かり安心したものです」。広島市安佐南区 中須の大久保ハルコさん(88)が被爆直後の混乱期を思いおこす。今も現役の助産師。七十年近くの間に、八千 人を超える赤ちゃんを取り上げてきた。

 「当時、出産や妊婦の異変はすぐ届けるように言われていた。ただ、私のところではABCCへの調査協力の話 は聞かなかったけど、広島市内の助産師は書類を出したりと大変そうでした」

 大久保さんの暮らす中須は当時、安佐郡安村。助産師組織は旧広島市内とは別だった。「市内では、米国人が面 倒なほどに調べに来る、と助産師仲間が言っていた」

 四五年八月六日早朝、大久保さんは、その旧市内へと勤労奉仕に出向く近所の人たちを見送った。自らは助産師 として地域を離れられなかったことが、その後の運命を分けた。顔の形も分からないほどに焼けただれ、逃げて来 た人たちの看護に追われた。

 生き残った後ろめたさに胸を締め付けられながらも、戦後は助産院が満杯になるほどに、命の誕生に立ち会った。 赤ちゃんに囲まれるのが、幸せだった。

 「書類や報告は米国人の勉強に役立てられたんでしょう。広島の助産師はそう信じて、職務に励んでいたと思い ます」

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 広島市西区の医師竹本孝さん(82)は一九五〇―五四年、ABCC遺伝部に在籍した。原爆投下の翌朝、下宿 先の岡山市から家族を捜して広島に入った被爆者である。米国の機関に職を求めた心境を「占領下の焼け野原で食 べていくのに必死だった」と振り返る。

 最初の仕事が新生児調査だった。住所がタイプされたカードを頼りに、赤ちゃんのいる家を戸別訪問した。調査 に先入観が入らないよう、親が被爆者か否かは知らされていなかったという。先天異常の有無などを調べ、帰り際 には母親に、米国製せっけんを手渡した。

 「新生児のほぼ100%が把握されていたようだ」と竹本さん。米国人に上手に使われている気がして、半ばう んざりしてABCCを辞した。「指示に従って仕事をし、報告書を書いただけ」。ABCCの運営の詳細は知らさ れず、報告書が米国でどう使われたかも、知る由はなかった。(森田裕美)

【写真説明】上=数々のお産に立ち会った経験を振り返る大久保さん 下=ABCC時代に携わった新生児調査の記憶をたどる竹本さん



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