中国新聞

「イノシシ博士」奮戦中

5人、中国地方で研究重ねる

 野生動物の研究が盛んな欧州に比べ、日本では博士号を取ったイ ノシシ研究者はまだ、10人もいない。そのうち5人は中国山地や周 辺を調査フィールドに選んでいる。中国地方にゆかりの深い「イノ シシ博士」5人の横顔を紹介する。

「猪変(いへん)」

特 集
(03.2.21)


小寺祐二さん 神崎伸夫さんへリンク
神崎伸夫さん
仲谷淳さんへリンク
仲谷淳さん
高橋春成さんへリンク
高橋春成さん
江口祐輔さんへリンク
江口祐輔さん
日欧比較


  小寺祐二さん(32)  行動パターン 意欲的に追う

 島根県のイノシシ対策顧問を務める小寺祐二さん(32)は、最も若 手の行動派。浜田市や周辺の山々を軽ワゴン車で走り、発信機を着 けたイノシシを追い掛ける。

 東京から浜田に移り住んで丸8年。東京農工大の院生時代、担当 教官だった神崎伸夫助教授(40)の勧めで調査地に選んだ。「イノシ シのすみかを探し、航空写真に載っている林道や山道などをしらみ つぶしに回りました」と振り返る。
 石見地方の山あいは耕作放棄地だらけだった。数年でやぶに変わ り、イノシシには格好の隠れがになっていた。
 博士論文のテーマは「イノシシがどんな環境をすみかに選ぶか 」。地面の掘り返し跡を丹念に探し、耕作をやめた田畑が近くにあ るかどうか、なぜ耕作をやめたのかを調べた。知り合いになった猟 師に頼み、獲物の胃袋も開けた。季節ごとに何を食べ、栄養状態が どのように変化しているのかを突き止めた。
 「日本のほ乳類では、イノシシの生態が最も分かっていない」と 言う。農業被害の出る時期の移動パターンはどうか、森の生態系で どんな役割を果たしているのか。「シカやサルに比べ、研究者が少 ないのはハンディだけど、被害対策を探る上で生態研究は欠かせな い」と強調する。
 四月からは、島根県中山間地域研究センター(赤来町)で特別研 究員を務める。コンピューターを使って24時間、イノシシの行 動パターンをつかむ計画だ。

  神崎伸夫さん(40)  保護 人間研究通じ考察

 「野生動物の保護はつまり、かかわる人間の利害調整、心の在り 方にかかっているんです」。東京農工大の神崎伸夫助教授(40)は、 人間研究こそ野生動物保護学の神髄、と説く。

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ポーランドの共同研究者と打ち合わせをする神崎さん(ポ ーランド・国際生態学研究所)

 学位論文では、イノシシ猟の実態や獲物の商品化ルートを調べ上 げ、それらが個体群に与える影響をみた。研究先に選んだイノシシ 肉の販売拠点、兵庫県北部の篠山市で売りさばかれる肉に、島根県 産が増えている現状を知った。それが中国山地との縁になった。
 東京生まれの都会育ち。過疎・高齢化が進み、獣害の悩みも深い 中山間地域の島根県西部、石見地方は別世界だった。格好の調査地 として、学部生や院生を送り出してきた。
 関心の幅は国内にとどまらない。オオカミもすむポーランド南部 で1996年から2年間、滞在研究。帰国後もポーランドを往復 し、ウクライナ、スロバキアと国境を挟む山岳地帯でイノシシの移 動や狩猟管理など、ソ連崩壊に伴う社会変化が野生動物に与える影 響を追っている。
 経済も人口も縮んでゆく、21世紀の日本。農業や農村の何を 残し、何を変えていくべきなのかを占えるのがイノシシ研究のだい ご味という。「でも、イノシシみたいに増えて困る動物を何とかす るより、トキとか花とか、絶滅しそうな動植物を残す研究の方が受 けるんですよね。この国って」


  仲谷淳さん(47)  単独社会の習性確認 

 大田市内の近畿中国四国農業研究センターの鳥獣害研究室長、仲 谷淳さん(47)は今も、「兵庫県の六甲山イノシシ研究の第一人者」 と呼ばれる。
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島のイノシシの実態や被害対策を聞き取る仲谷さん(広島 県倉橋町役場)

 博士論文の研究フィールドが六甲山だった。神戸市民の餌付けで 人への警戒心が薄い野生イノシシに着目し、追跡した。リュックに 水や弁当を背負い、長い時は36時間続けて観察した。「猟師な どを恐れて夜に出るけど、本当は昼行性の動物なんです」
 獣道はやぶだらけ。毎日、シャツが破れ、おじゃんになった。夜 もねぐらでイノシシの寝息を聞きながら、そばで寝た。「体格や耳 の傷などで、1頭ずつを見分けて。研究の対象に200頭ほど、追い かけた」。そうやって、雄も雌も基本的に単独型の社会を持つイノ シシの世界を明らかにした。
 和歌山市内の女子短大で教壇に立っていた一昨年10月、全国公募 で現職の鳥獣害研究室長に選ばれた。「今度は農業研究者の立場。 獣害に悩んでいる農家や自治体が自力で解決に立ち向かえるよう、 地域に専門家を育て、組織したい」
 守備範囲は広い。中国山地だけでなく、繁殖が進む瀬戸内海の島 にも出向いている。和歌山県北部のかんきつ農家で育った。「農業 や田舎暮らしが、やりがいあるものになっていくよう、農家と都市 住民とともに、獣害対策を考え合いたい」と夢を描く。


  高橋春成さん(51)  シシ垣に探る共生のヒント

 「山間部で進む過疎の要因を探るうち、イノシシの問題に行き当 たった」。奈良大文学部教授の高橋春成さん(51)は広島大で1970年から12年間、学部生、院生、助手として過ごした当時を振り 返る。
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「地域を見つめ直す教材に」と、シシ垣の掘り起こし調査 を始めた高橋さん(滋賀県志賀町)

 調査地に中国山地を選んだ。人口流出で荒れゆく里や山林は、ク マやイノシシたちのすみかと変わり、獣害が過疎化に拍車を掛けて いた。地理学の視点から、人間と獣とのかかわり方を研究テーマに 絞った。
 博士論文では、高度成長期に過疎化が進んだ農村部で分布域を広 げたイノシシに着目。被害増に伴って捕獲数が伸びる中、都市部の レジャーブームで肉の商品化や飼育が盛んになった経過も跡づけ た。調査地を小笠原諸島やオーストラリアまで広げ、野生化したブ タによる被害も調べた。
 滋賀県守山市の浄土真宗の寺に生まれた。研究の傍ら、住職の父 を手伝っている。「被害に遭った農家の憤りは分かるが、イノシシ はまるきりの悪者じゃない。駆除するにしても、殺生に対する供養 の精神を忘れないでほしい」と願う。
 昨年秋、イノシシよけで江戸時代などに築かれたシシ垣の遺構や 歴史の掘り起こし運動を始めた。古地図や古文書、古老の記憶を手 がかりに、住民と探し歩いている。「シシ垣は郷土の現代と過去を つなぐ、生きた文化財。人間同士や自然との付き合い方、獣害防止 のヒントを考え合うきっかけになると思う」


  江口祐輔さん(33)  動物の目線で防衛策を伝授

 高さ110センチのハードルを飛び越す野生イノシシをビデオに撮 り、世間を驚かせたのが、近畿中国四国農業研究センターの鳥獣害 研究室(大田市)にいた江口祐輔さん(33)。今年1月、母校の麻布 大(神奈川県)に戻り、動物行動管理学の講師になった。
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放し飼いの実験施設に江口さんが行くと、猪が近寄ってく る(大田市の近畿中国四国農業研究センター)

 跳躍実験のビデオが全国放映されると、センターの電話は鳴り続 けた。「指導に来て」。依頼は関東から九州まで。獣害に悩む農家 には「救世主」と映ったようだ。「イノシシ研究じゃあ(飯は)食 えないと、つい最近まで思われてきた」と笑う。
 出身の畜産学科は牛や豚などの家畜が主流。イノシシ研究を選ん だのは、持ち前の反骨心。世界でも前例のない色覚調査に取り組 み、「赤と灰色を区別しにくい」などを明らかにした。
 博士論文は、飼育イノシシのお産や保育行動。「むらおこしブー ムで飼育に挑み、しくじるケースが当時多くて」。時には牧場で三 日三晩ぶっ続けで観察。「出産後2週間、母親は攻撃的。構うとい けない」など、飼育のこつを突き止めた。
 1999年春、大田市に移り、野生イノシシの実験を始めた。中 国山地の集落もひたすら回った。「この防護さくじゃ、越えられ る」。獣の目線で感じ、考えられる自分に気付き、農家に還元すべ き役割を悟った。
 イノシシの行動や生態を踏まえ、賢い防ぎ方を農家に伝授する本 を近く、出版する。「研究仲間を増やしたい」と今は、教育職に意 欲を燃やしている。


  日本の研究なぜ遅れた  資料収集難しく地形もハンディ

 ≪日欧比較≫日本のイノシシ研究がなぜ、遅れているのか。「シ カやクマと違って体高が低く、やぶを好んですむから、姿をとらえ にくい」(仲谷さん)。地理的条件はデータ収集も妨げる。平原の 森が多い欧州ではイノシシに発信機を着け、衛星やアンテナで電波 を拾う追跡調査がやりやすい。日本では険しい山谷が電波の影とな り、受信が難しい。神崎助教授は「英語圏にイノシシがいないか ら、海外の発表論文も入手しづらい」。英国では十六世紀に絶滅 し、米国でも人間が狩猟用に放したのが一部で増えているぐらい、 という。



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