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グラウンド・ゼロ |
再現、鉛筆画に託す
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この町の上空約六百メートルで原爆は炸裂(さくれつ)した。紅蓮(ぐれん)の炎の中心は百万度を超え、瞬く間に町を、人をなめ尽くした。 建物群整然と 広島市細工町(現・中区大手町一丁目)。森冨茂雄さん(75)=西区=は、十六歳の誕生日の六日前まで過ごしたこの辺りを四十枚の鉛筆画に描いている。「脳梗塞(こうそく)を患ったし、しゃべるのは苦手。絵に描いた方が、説明がみやすいじゃろ」 爆心地として知られる島病院(現・島外科)はこの町にあった。原爆ドームの前身である広島県産業奨励館はすぐ隣の猿楽町。商店や郵便局、寺や墓地…。一帯は遊び場だった。隣近所が声を掛け合い、肩を寄せて暮らす町だった。森冨さんの鉛筆画は、格子戸の建物の群れを整然と描く。 細工町には父が営む寝具店があった。森冨さんはあの瞬間、そこから二・五キロ離れた学徒動員先の三菱己斐分工場(西区)にいた。猿楽町にあった自宅は五カ月前、鳥屋町(現・大手町二丁目)へと移っていた。爆心地からやや遠ざかったとはいえ五百メートル以内。家にいた父や弟たち五人の声を聞くことは、二度となかった。 森冨さんの四十枚の鉛筆画のうち、被爆の惨状を記したのは三枚しかない。「原爆が落ちる前は本当に楽しかった。そのいい思い出を絵に詰め込んだ」 CGで細かに その細工町の被爆前の様子を三次元のコンピューターグラフィックス(CG)で再現する動きがある。映像会社社長や大学教授たちでつくる「ヒロシマ・グラウンド・ゼロ(爆心地)」プロジェクト。町並みとともに、原爆の爆発の瞬間も描き出す計画だ。 広島工業大大学院一年西鶴英之さん(22)は、昨年からプロジェクトに加わり、爆心地の復元地図づくりなどに取り組んできた。それまで原爆被害と向き合う機会は、ほとんどなかった。 「町の人いきれ、ぬくもりをCGで表現したい」「無機質な映像に終わらせたくない」。やはり被爆三世であるゼミの一年先輩の柴田雄一郎さん(23)とともに森冨さんを訪ねた。 「なぜ言葉ではなく、絵で体験を伝えるのですか」。絵を広げて思い出を話す森冨さんに、二人は実直に問いかけた。「あの惨状を目の当たりにしたら、まともに話なんてできない」と森冨さん。やがて、真摯(しんし)な学生たちの表情に背中を押されるかのように、つらい記憶をひもとき始めた。 |
【写真説明】直筆の鉛筆画を広げ、西鶴さん(左)と柴田さん(右)に体験を語る森冨さん(撮影・今田豊) |