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電車内で |
血染めの服…40度の高熱
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青白い光が差し込んだかと思うと、周囲はオレンジ色に染まった。南に向かう路面電車内。「やられたか」。われ先にと飛び降りた。割れたガラス窓で切ったのか、右耳の辺りから血がしたたる。服は真っ赤に染まった。青かったはずの夏空はいつの間にか、どす黒くなっていた。 土岐龍一さん(79)=広島市西区=は、広島電鉄の白島線の車内にいた。爆心地から約一・五キロ、当時は泉邸と呼んだ今の縮景園(中区)付近だ。「もうだめだ。死ぬんなら何としても家に帰りたい」 それから五十九年。土岐さんは、広島修道大の三年生三人と一緒に、白島線に乗った。被爆した場所を案内し、持参した戦前の市街地図を広げて回顧談を続けた。 牛田町(東区)にあった自宅へと北に向かい、京橋川では約七十メートルの川幅を平泳ぎで渡り切った。対岸が燃え始め、神田橋は通れなかったからだ。家にいた母も爆風に吹き飛ばされていたが、無事だった。 その夜、四〇度を超える高熱を出した。母はどこから手に入れたのか、ミカンを差し出してくれた。ひんやりと、おいしかった。 そんな体験を土岐さんはずっと胸に秘めていた。教壇に立った高校の教え子たちにも、自らの子や孫にも、ほとんど話したことはなかった。人前で証言したのは、今年の夏が初めて。知人に頼まれ、「8・6」の広島に来た全国の若者たちへの講師役を務めた。 「原爆のすさまじさは体験した者にしか分からない」。土岐さんはそう考え続けてきた。 学生たちは、違う思いを抱いていた。井上裕可里さん(22)と絹井玲奈さん(21)は広島に生まれ育ち、平和教育を受けてきた。だが、「身近にあるはずの原爆被害がイメージできない」との思いがぬぐえない。大学で平和について学ぶ諸岡陽介さん(20)も、原爆と一般戦災の被害とで「命の重さに違いはないはずだ」と考える。 四人は、京橋川へ、泉邸へとたどった。朝から日暮れまで、八時間もの対話を続けた。どうすれば「あの日」が伝わるか―。 |
【写真説明】白島線の路面電車内で、土岐さん(左端)の体験を聞く、右隣から順に絹井さん、井上さん、諸岡さん(撮影・松元潮) |